※本サイトはプロモーションを含んでいます。
この記事では「孟子」について解説いたします。
漢文の授業や歴史本などでその名前や作品などを見聞きしたことはあっても、それ以上の詳しい内容についてはあまり分かっていないという人もいるかもしれません。
そこで今回は「孟子」の生涯や孔子との関係性、思想や書物なども含めてまとめました。
この記事を通して「孟子」への理解が深まれば幸いです。
孟子とは
「孟子」は「もうし」と読み、中国の儒学者です。
中国戦国時代(紀元前300年代)に儒学者として活躍した人物として知られています。
母の導きで幼い頃から勉学に励み、母の元を離れてからは一世代前の儒学者である「孔子」の孫にあたる「子思」(しし)の門下で儒教を学びます。
その後は諸国を遊説しますが、戦国時代の背景の中では理想主義と排され、その後は隠遁生活を送りました。
しかしその思想はのちに再評価されることになります。
孟子の生涯
「孔子」は春秋時代に生きた人でしたが、「孟子」はその後の戦国時代に生きました。
戦国時代の特徴としては武力抗争が盛んであったことと、「孟子」もそこに含まれる「諸子百家」(しょしひゃっか)」と呼ばれる様々な学者や思想が現れ学派が乱立したことが挙げられます。
「孔子」の孫である「子思」の門下で学び、諸国を歩いて「君主は武力による覇道ではなく、仁愛による王道を用いるべきだ」と説きました。
しかしそれが受け入れられることはなく、晩年はふるさとで弟子の教育にあたります。
「孟子」については母である「孟母」も有名です。
墓所の近くに住んでいた「孟母」と幼い「孟子」は、子供の教育には環境が大切だと考えた母により市場の近くに、さらに学校の近くにと2回転居し、この話は「孟母三遷」としてよく知られています。
また少年になった「孟子」に、織りかけの織物を断ち切って学業を続ける大切さを教えたという「孟母断機」の話でも有名です。
これらの話が史実なのかどうかは実は不明ですが、「孟子」がどういう環境で育ったのかこれらの話からある程度想像がつきます。
孟子と孔子の関係性
「孟子」は「孔子」に次ぐ儒教の伝承者として重要な人物で、孔子と孟子の教えを「孔孟の教え」と呼ぶほど儒教の中心の教えとなっています。
先述のように、「孔子」の孫である「子思」の門下で儒教を学びました。
したがって「孟子」は「孔子」の影響を少なからず受けている人物だといえるでしょう。
孟子の思想
「孟子」の思想は後世に大きな影響を与えました。
この項目では、その思想として4つご紹介します。
性善説
「性善説」とは「生まれついての悪者はいないのだから、悪に染まらないよう学問を修め努力すれば誰でも聖人になれる」とする説です。
「孟子」は人が生まれながらに持っている「四端」の概念を用いて、「性善説」の根拠を説明しました。
「四端」とは「仁・義・礼・智」のことで、「仁」は人を憐れむ心、「義」は自分の不正を恥じる心、「礼」は人に譲る心、「智」は是非(正しいことは良いこと、不正は悪いこと)の心をそれぞれ表します。
生まれたままの状態の「四端」は小さいが、学問をし修養を積めば「四端」の徳を自分のものにできるのだと説きました。
そして後に登場する儒教の一派である朱子学は「性善説」を採用し、その朱子学は江戸時代には幕府公認の学問とされ日本に広がります。
中でも「性善説」は「吉田松陰」に大きな影響を与えたことでも有名です。
性善説とは?意味やビジネス上の使い方、性悪説との違いを解説
王道政治
「王道政治」は、仁義に基づき有徳の君主が国を治める政道のことをいいます。
「王道政治」の反対は、武力や策略によって支配や統治をする「覇道政治」です。
「孟子」は世の中の安定に人の心の安定が必要だと考え、「道徳」を重要視していました。
例えば「力を以て仁を仮(か)る者は覇なり。徳を以て仁を行う者は王たり。」という言葉を残していますが、これは以下のような意味です。
易姓革命
「易姓革命」(えきせいかくめい)とは「孟子」らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論です。
中国では王朝が交替することを「易姓革命」と言い、「易姓」とは王朝の支配者の姓がかわること、「革命」は天の神(天帝)の意志(命)がかわる(革る)ことを意味しました。
殷(商)の紂王が悪徳の限りを尽くし民を虐待したため、天の意志で周に交替したのがその初めで、それ以後「革命」は中国では王朝の交替のことを意味したのです。
井田法
「井田法」(せいでんほう)とは周代に行われたとされ、「孟子」などによって理想化された土地制度です。
一里(約400m)四方(約17ha)の田を井字形に九等分し,周囲の八区画を八家に与え,中央の1区画を公田として共同耕作の上,その収穫を納めさせたものとされています。
実施されたか否かは諸説ありますが,後代の土地制度への影響は少なくありませんでした。
性悪説とは
「性悪説」とは、「人は生来弱い存在であり、不断の努力によってその弱さを克服し善に至るべきである」とする説のことです。紀元前3世紀頃の中国の思想家である「荀子」(じゅんし)が性善説に反対して唱えました。
性悪説の原文と書き下し文およびその現代語訳は下記の通りです。
書き下し文:人の性は悪なり、其の善なるは偽なり。
現代語訳:生来の人間の性質は悪であり、善になるのは後天的な努力によってである。
ここでの「悪」とは「悪いこと」や「罪」ではなく「弱い存在」、「偽」は「嘘」や「偽物」ではなく「人の為す行い」といった意味で使われていることには注意した方が良いでしょう。なぜならそれぞれを前者の意味で解釈すると、性悪説の本来の意味を誤解してしまう恐れがあるからです。
誤った意味で覚えないように気をつけましょう。
性悪説とは|正しい意味・読み方・使い方、性善説の違いについても解説
孟子の書物
「孟子」とその弟子たちが作った書物が『孟子』で、儒教の正典である四書の一つです。
『孟子』は「孟子」の言葉をまとめたもので、章の冒頭の文字を冠した七篇から成ります。
『孟子』は民意を尊重し革命を肯定する書として、当時の中国では為政者に恐れられていました。
王朝が機能しなくなる度に「孟子」は再評価され、新しい王朝を誕生させる原動力にもなったのです。
日本においても明治維新を生み出す思想の根本に『孟子』があったとされています。
孟子が残した名言
「孟子」は様々な名言を残したことでも有名です。
この項目では、その中から五つご紹介します。
「五十歩百歩」(ごじっぽひゃっぽ)とは、わずかな違いだけで大差はないことの例えです。
自分と同等の立場にある相手を嘲笑することの愚かさを指摘する意味なので、良い意味の例えには使いません。
五十歩逃げた兵士が百歩逃げた兵士を笑うのはおかしいという例えの会話が出典です。
「仁者は敵なし」(じんしゃはてきなし)とは、「おもいやりの徳がある人は深い愛情を示すので敵となる者はない」という意味です。
「似て非なるもの」(にてひなるもの)とは、「一見似ているようだが本質は異なるもの」、「正しくないもの」という意味があります。
穀物の苗に似た雑草を憎むという話の例えから、似ていてもまがいものは憎むという意味の格言です。
「孟母三遷の教え」(もうぼさんせんのおしえ)とは、先述の「孟子」の母の逸話から、教育における環境の大切さを示す言葉です。
日常の環境の積み重ねが習慣となって成長に影響することを指しています。
「孟母断機の教え」(もうぼだんきのおしえ)も「孟子」の母の逸話から、本当に為すべきことは途中でやめてはならないという格言です。
まとめ この記事のおさらい
- 「孟子」は中国戦国時代(紀元前300年代)に活躍した儒学者
- 「孟子」は「孔子」の孫である「子思」の門下で儒教を学んだ
- 「孟子」の思想としては「性善説」や「王道政治」、「易姓革命」や「井田法」といったものが挙げられる
- 「孟子」とその弟子たちが作った書物が『孟子』で、儒教の正典である四書の一つ
- 「孟子」が残した名言は「五十歩百歩」や「仁者は敵なし」、「似て非なるもの」や「孟母三遷の教え」といったものが考えられる