プロアスリートの引退後は、セカンドキャリアと呼ばれ、一般社会人と同じく異業種への転職で苦労する人が多くなっています。
プロ野球の世界では、引退後も業界に関わっていける人は、ほんの一握りです。だいたいの人が異業種への転職をしなければいけない状況になってしまいます。

しかし、元プロ野球選手の中にも、すでに異業種への転職に成功している人も少なからず存在しています。

この記事では、10人の元プロ野球選手の野球界引退までのプロフィール、その後の異業種転職を成功させるまでの経緯、現在の職業についてなどをご紹介します。

プロ野球選手は、ケガに悩まされたり、戦力外通告を受けたり、一度かなりのショックを受ける人も少なくありません。そんな状況でも転職を成功させた彼らの経歴を知ることで、一般社会人の異業種転職にも活かせることがあるはずです。

目次

奥村 武博(元・阪神タイガース所属)

プロフィール

1979年7月17日生まれ、岐阜県多治見市出身、父がコーチを務めていた少年野球チームで野球を始めました。

甲子園に出場した経験を持つ監督が率いていた、岐阜県立土岐商業高校の経理科へ進学します。
入学後はエース投手として活躍したものの、甲子園出場の夢を果たすことなく卒業が迫りました。

1997年のドラフト会議で、阪神タイガースから6位指名を受け、入団します。

1998年のシーズン終了後に右ひじの手術を受け、1999年もリハビリに費やします。
しかし、同年に阪神タイガース新監督になった野村の目に留まり、2000年は一軍に帯同することになりました。

このチャンスをつかみたいところでしたが、この年のシーズン途中に脇腹肋骨を骨折し、手術・リハビリ生活を送ることになります。

2001年には右肩を痛め、シーズン終了後には、とうとう球団から戦力外通告を受け、一軍登板がないまま現役引退に至りました。
2002年は、打撃投手として阪神タイガースに在籍するも、ふたたび首を通告されてしまいます。

現在の活躍、実績に至るまで

引退後は、友人と大阪でバーを開業しました。
それと同時に、そのまま飲食業で生計を立てるつもりで、調理師学校にも通い出します。

しかし、2003年は阪神タイガースが圧倒的な強さで優勝した年で、自分の選んだ道が正しいのか迷い出します。

2004年、たまたま見た資格ガイドで公認会計士の資格のことを知り、高校で簿記2級を取得していた経緯から、会計士を目指します。
予備校に通いながら、アルバイトで生計を立て、まずは簿記検定1級に合格します。

2009年に公認会計士の短答式1次試験に合格、その後論文式2次試験を3回受けるも、不合格になります。

もう一度1次試験から挑戦し、2013年、ついに公認会計士に合格しました。
足かけ9年の歳月がかかったことになります。

現在は公認会計士として活躍

2014年から東京都の監査法人に勤務し、2017年夏に公認会計士登録を果たしました。
このことは、元プロ野球選手初の公認会計士の誕生として、マスコミにも取り上げられました。

公認会計士になるには、まずは試験を受験しなければいけません。
受験資格はなく、高卒でも大卒でも、誰でも受けられる試験ですが、毎年10%ほどの合格率の難関資格試験です。

短答式1次試験、論文式2次試験があります。「会計学」「監査論」「企業法」「租税法」の必須4科目に、「経営学」「経済学」「民放」「統計学」から1科目を選択します。

転職を目指し公認会計士に挑戦するなら、予備校に通ってたり、通信教育で勉強したりする人が大半です。

伊達昌司(元・日本ハムなど所属)

プロフィール

1975年8月23日生まれ、神奈川県川崎市出身、父も元プロ野球選手の家庭に生まれます。

法政大学第二高から父と同じく法政大学に進学、社会人野球のプリンスホテルに入団します。
しかし、入団2年でプリンスホテル野球部は2000年で廃部になります。

同年にプロ転向の意志を表明し、2001年にドラフト指名2位で阪神タイガースに入団します。

2001年には28試合に登板、2002年は中継ぎとして41試合に登板するも、2対2の交換トレードに出されます。

2003年には北海道日本ハムファイターズに移籍します。2003年、2004年とも、故障に悩みながら、主に中継ぎとして活躍します。

2005年3月に金銭トレードで、リリーフとして読売ジャイアンツに移籍になりました。

読売ジャイアンツでは、リリーフとして目立った活躍をできないまま、2006年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて、現役を引退することになりました。

現在の活躍、実績に至るまで

引退後、「今まで人に恵まれてきた。今度は支えられる立場になれたら」との思いから、教職を目指す決意をしたとインタビューで語っています。

何から手を付けていいか分からず、教員の友人にアドバイスを求めました。教職でもパソコンを使うといわれたのをきっかけに、まずはPC教室に通います。

その後、2007年4月には、科目等履修生として、母校法政大学に2年間の通学を始めます。
並行して、2008年度は臨時で巨人の寮監として働きました。

また、パソコン検定試験準2級とマイクロソフトオフィススペシャリストのオフィスマスターの資格も取得しています。

しかし、大学通学後に挑戦した2009年度の教員採用試験は、不合格になってしまいます。
2009年は、横浜市の養護学校で臨時職員として働きながら、再度教員試験を目指すことにしました。

翌2010年には、見事に東京都の教員として正式採用されました。

現在は東京都で高校教諭、野球部部長

2010年より、東京都立江戸川高等学校で社会科の教員として、教壇に立っています。

同時に高校野球の指導者を目指していましたが、それには日本学生野球協会の適性審査を受けなくてはなりません。その審査を受けるには、教諭として通算2年以上の在職が必要です。
タイミングよく、2011年2月に「在職期間の臨時職員の経験も2年の在職に含まれる」と、条件緩和されます。

高校に配属された当初はサッカー部顧問でしたが、2011年には念願の野球部の顧問指導者として活動できるようになりました。

現在は、府中西高校で3年生の担任を受け持ち、引き続き、放課後は野球部の顧問としても活躍しています。

東京都公立学校教員採用試験では、社会人経験や特技などを活かす特例選考があり、年齢制限を59歳までとしています。
それを利用して、異業種から転職する人もいます。

平成28年度選考(29年度採用)では、合格者のうち、30代前半が11%、30代後半は5%、40代前半は3%を占めています。

西川 拓喜(元・オリックス・バファローズ所属)

プロフィール

1987年8月15日生まれ、山梨県山梨市出身。

静岡県の三島高校(現:知徳高等学校)時代には野球部でプレーするも、甲子園出場経験はないまま卒業します。

その後、栃木県の白鴎大学に進学しました。
在学中には、1年時から外野手でレギュラーを獲得し、ベストナインにも4度選ばれ、日米大学野球の強化合宿に参加します。

卒業後の2010年には、独立リーグNPBの福井ミラクルエレファンツに入団します。
1年目からリーグ戦に出場し、3年目は主将、そのシーズン終盤には4番打者をつとめ、打撃十傑入りを果たす活躍をしました。

2012年10月のドラフト会議で、オリックス・バファローズから育成2位指名を受け、2013年にはプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせます。

2013年に負傷した選手の代わりとして1軍登録され1打席に出場します。
しかし、その後は振るわないまま、2014年10月に球団から戦力外通告を受ました。

現在の活躍、実績に至るまで

引退を決めた直後、同じくオリックスから戦力外通告を受けた捕手の庄司龍二とともに、大阪府警の警察官を目指すことを決めます。

すぐに警察官への挑戦を決めたのには、大阪府警がその年に開始した制度を利用できる見込みがあったからです。

大阪府警が実施している採用試験のなかに、「自己推薦方式」があります。
「一芸採用」とも呼ばれるこの方法は、幅広く人材を確保するための制度で、スポーツ経験や民間企業での実績を書面、または面接で自己PRする試験です。

そのために、大阪府警の一般選考よりも、面接回数が1回多く設定されています。

2014年度に全国で初めて実施された自己推薦方式は、計811人が挑みました。

現在は大阪府警の警察官

大阪府警の自己推薦方式で見事合格し、2015年から警察官として活躍しています。

自己推薦方式は、元プロスポーツ選手だけでなく、転職者でも挑戦できる内容です。

求める人物像の例は以下の通りです。

・日常会話レベルの語学力がある人
・情報技術関係について卓越した技能
・知識を持っている人
・各種スポーツの全国大会出場経験や文化系コンクール等の全国大会出場経験がある人
・金融部門に在籍し、財務・金融知識に精通している人など

実際に自己推薦方式で合格した人には、元お笑い芸人や少林寺拳法経験者、銀行員、留学経験者などもいます。

平成29年度第3回の自己推薦方式では、受験申込者は男性140名、女性67名、最終合格者が男性14名、女性13名、倍率は男性が10倍、女性が5.2倍でした。平成28年度は、3回募集があり、他の回は男性女性とも、倍率はおおむね4~5倍というところです。

財前貴男(元読売ジャイアンツ所属)

プロフィール

1986年12月2日生まれ、福岡県遠賀町出身、西日本短大附高時代に甲子園出場経験があり、卒業後は駒澤大学に進学しました。

在学中、2年次の夏に腰椎ヘルニアを患い、3年次の秋に野球部を退部します。

しかし、退部後も治療の傍らトレーニングを続け、4年次の秋に受けた読売ジャイアンツの入団テストでは最終選考まで残りました。

卒業後は、高校時代の同期から誘われ、愛知県名古屋市に本拠地を置く社会人野球のクラブチーム「エイデン愛工大OB BLITZ」に入団します。

2010年10月のドラフト会議で、読売ジャイアンツから育成5位指名を受けます。
2011年からプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせ、エイデン愛工大OB BLITZから初のプロ野球選手となりました。

2012年4月3日のプロ・アマ交流戦で首の付けにデッドボールを受け、頸椎棘突起を亀裂骨折し、復帰まで2か月かかります。

結局、この年10月に戦力外通告を受け、一軍公式戦出場経験がないまま、引退に至ってしまいます。

現在の活躍、実績に至るまで

引退食後になる2012年12月から、茨城県つくば市の筑波病院付属の介護施設、デイサービス部でヘルパーの見習いを始めます。

インタビューでは、「いずれ、鍼灸師になります」と語っています。

現在は介護ヘルパー

ヘルパーを始めて10か月たったころの取材では、病院の野球チームにも所属していました。
朝7時に体育館入りし、ランニングやキャッチボール、トスバッティングを週3回行い、朝練の後に出勤している様子が報じられています。

また、介護ヘルパーの仕事は、「野球で身に染みているチームプレイに通ずるこの仕事、嫌いじゃないんです。」ともいっています。

介護ヘルパーは、有料老人ホーム、グループホーム、サービス付き高齢者向け住宅などの施設で利用者の高齢者のお世話をする仕事です。

高齢化が進む中、転職しやすい職種ではありますが、大変な職種でもあります。
一人一人に合わせたお世話が必要ですし、ヘルパーとして、またチームの一員としての働きも期待されます。

しかし、介護の現場で人の役に立つ充実感があり、長く続けられる職種でもあります。介護業務の実務経験を3年以上積めば、介護のエキスパートである国家資格「介護福祉士」の受験資格を得て、キャリアアップすることも可能です。

橋本 太郎(横浜ベイスターズ)

プロフィール

1986年4月21日生まれ、大阪府大阪市出身。
大阪体育大学浪商高等学校3年生の時に、大阪大会ベスト8まで進み、プロ入りを考えます。

2004年度ドラフト会議で、横浜ベイスターズから7巡目で指名があり、2005年に横浜ベイスターズに入団を果たしました。

しかし、入団直後の春季キャンプ前に急性虫垂炎になってしまい、練習不足で二軍でのスタートからとなります。

翌2006年には、一軍初登板・初先発を経験、2007年は二軍でリリーフとして活躍しました。
2008年も二軍での選手生活となり、同年シーズン後に戦力外通告を受けてしまいます。

12球団合同トライアウトに参加するも声がかからず、そのまま2008年に現役引退に至りました。

現在の活躍、実績

引退後には、社会経験を積むため、コラーゲン鍋のレストラン、東京・西麻布「ハレノヒ」で勤務をはじめます。
皿洗いからのスタートでしたが、半年で西麻布店の店長になりました。

当時のコラーゲン鍋流行の火付け役ともいわれたレストランで、原価計算、予算立て、スタッフ管理などの店長業を学んでいきます。
のちのインタビューでは、当時は「店を自分の野球チームと思って、隣の店を敵チームに見立て」、必死だったそうです。

もともと、世の中のために役に立つことをしたいという気持ちがあり、東日本大震災をきっかけに起業を考え始めます。

現在は人力発電の会社代表理事、焼肉店経営

2011年4月に、目黒川の花見に合わせて人力発電のイベントを企画しましたが、そのイベントは中止になってしまいます。

それで一念発起、一般社団法人「チームエジソン」を設立して代表理事に就任します。

2011年、他のイベントも手掛け、どんどん規模を広げています。
今では、全国各地で人力発電のイベントを企画しています。

自転車をつなげ、自らがこぐことで発電し、各地の名所や歴史的建造物などをライトアップする活動など、楽しみながらエネルギーの大切さを実感してもらったり、震災の記憶を忘れないために電気を作る大変さ、節電への意志を高めてもらったりするための活動です。

それと平行し、コラーゲン鍋レストラン店長の経験を活かし、六本木で焼肉レストラン「BEEF MAN」も経営しています。

但馬牛を専属農場から仕入れ提供しており、その農場経営者は高校野球経験者、六本木店店舗責任者は元プロ野球選手です。

現在、「BEEF MAN」は、東京、大阪で数店舗の展開まで拡大しています。

G.G.佐藤(元・西武ライオンズなど所属)

プロフィール

1978年8月9日生まれ、千葉県市川市出身、小学生のころから野球をはじめ、中学時代には野村沙知代がオーナーを務めるチームでプレーしていました。

その後、甲子園常連校である桐蔭学園高等学校に入学、法政大学に進学します。
大学在学中には、ショートとして公式戦に出場していますが、レギュラー確保までには至らずにいました。

大学卒業後には肉体改造をして渡米、マイナーリーグ・フィラデルフィア・フィリーズ1Aに入団しました。
在籍中には、捕手にコンバートされています。

2002年に日本へ帰国し、ジャニーズ事務所の所属タレントを警備するアルバイトをしながらプロ野球選手を目指します。

同年に受けた西武ライオンズの入団テストで当時の伊東監督の目に留まり、2003年のプロ野球ドラフト会議で7巡目指名を獲得、2004年に西武ライオンズに入団を果たします。

プロ入り後は内野手(一塁手)として活躍、2007年には安定してクリーンナップを任され、ファンからは「キモティー」の愛称で親しまれます。

2008年にはオールスターファン投票で、セ・パ通じての最高得票数で初選出されました。

同年、北京オリンピック野球日本代表チームに、外野手として追加招集されます。
しかし、3位決定戦で落球の失策を犯すなど、実力を発揮できないまま帰国しました。

その後、疲労骨折が判明し、クライマックスシリーズ、日本シリーズでは登録メンバーから外れています。

2009年は高打率で活躍、2019年には左翼手へコンバートされるものの、2軍降格、両肘と左肩の手術に苦しむ年になりました。

2011年は、チームの若手起用の方針により、プレーする機会がなく、シーズン後に西武ライオンズから戦力外通告を受けてしまいます。

しかし野球を続けたい一心で、2012年からイタリアンベースボールリーグのフォルティチュード・ボローニャ1953と契約します。
そのシーズンを終えて帰国したところで、千葉ロッテの監督に就任した恩師、伊藤からの誘いでキャンプに参加、入団テストを経て、2013年、千葉ロッテで1年ぶりの日本野球界復帰を果たします。

2013年、1軍公式戦30試合出場したものの、2014年は2軍生活、シーズン終了後に戦力外通告を受け、現役生活を退く決意に至ります。

現在の活躍、実績に至るまで

引退決意の3日後、会社経営をする父に連絡をします。
小さな頃から、父の働く姿を見て尊敬していたので、その会社で働きたくてお願いするつもりだったと、のちのインタビューで語っています。

現在は家業の測量会社で営業部のマネジャー

家業の住宅測量・地盤改良会社で開発営業部マネジャーとして、受注から現場での支持までも担当しています。

インタビューでは、「野球も、ビジネスも、共通するところはたくさんある。練習して、試合があって、反省してまた練習する。このサイクルは同じ」と語っています。継続が力になるのを、野球を通してすでに知っているからこそ、異業種でも頑張れるのでしょう。

現在は、休日には社内の軟式野球チームでプレーを続けて、野球も楽しんでいます。

また、プロスポーツ選手のセカンドキャリアをサポートしたいとの思いもあり、2015年末には3名の現役引退した元プロ野球選手を採用しています。

近年では、バラエティー番組出演、野球解説者、大河ドラマ出演等も果たしています。

体育会出身者のための転職支援サービス「スポナビキャリア」

加藤幹典(元・東京ヤクルトスワローズ)

プロフィール

1985年6月4日生まれ、神奈川県横浜市出身、小学校1年生から地元のチームで野球を始めていました。

県立川和高校に進学、1年生の秋からエースピッチャを務め、3年生の時には「神奈川公立BIG3」のひとりといわれるほどの投手になっていました。

その後、慶應義塾大学環境情報学部(SFC)に進学します。
1年次から投手陣の柱として活躍し、4年次には日米大学野球選手権大会日本代表にも選出されています。

この年には、21世紀初、20人目の30勝投手、また慶應義塾野球部史上最多の371奪三振を記録しました。

2007年11月のドラフト会議では「大学生BIG3」と称され期待され、東京ヤクルトスワローズから単独指名を受けました。

2008年、新人ながら開幕1軍スタート切るも、その後は期待に応えられないシーズンとなってしまいました。
2009年、2010年は、それぞれ数回先発として公式戦に登板、2011年は中継ぎとして登板するも、結果を残せずに終わります。

2012年は1軍登板がないまま、シーズン終了後に戦力外通告を受けて、現役を引退してしまいます。

現在の活躍、実績至るまで

引退後すぐ、2012年12月1日からヤクルト本社に勤務しています。

現在はヤクルト本社勤務

ヤクルト本社では、最初は宅配営業部配属になりました。ヤクルトの試飲で、一般家庭を回り勧める仕事です。

それと平行して、東京ヤクルトスワローズOBとヤクルトグループが中心になって野球教室などを開催するNPO法人つばめスポーツ振興協会に、講師として所属しています。

2015年4月には部署異動があり、マーケティング関連の仕事をしています。

また、2016年秋から母校の川和高校で非常勤コーチ、2017年夏からは池袋の野球教室でもコーチをしており、野球と関わり続けながら仕事にも励んでいます。

中川 申也(元・阪神タイガース)

プロフィール

1973年6月30日生まれ、秋田県横手市出身、中学3年生の時からチームのエースを務めていました。

秋田経済法科大学附属高等学校に進学し、1年生から甲子園出場、初戦で先発して完投完封勝利をあげました。
そのころから、アイドル球児として人気の高い選手でした。

2年生では甲子園に再度出場するも、3回戦敗退を期してしまい、それが最後の甲子園となっています。

1992年、ドラフト指名でに阪神タイガースに入団します。
1993年はルーキーリーグ・ブリストル・タイガースに野球留学を経験するも公式戦出場の機会のないままケガもあり、1995年に現役引退に至ります。

現在の活躍、実績に至るまで

引退後は、妻の実家の建築会社で働いています。

現在は建設業で会社員

会社員として勤務するかたわら、小学校3年生から高校生を対象にしたバッティングスクールでコーチもしています。

後のインタビューで、野球の経験から学んだことについて「忍耐力がついたことです。プロを経て社会人になってから、ヘマをして怒られても動じず「またやってやろう」と切り替えられています」と語っています。

建設会社といっても、事業規模と工事内容の違いで仕事はさまざまですが、一般的な建設会社では、工事のプロジェクトにはかなり多くの人が関わります。
野球で身につけた忍耐力は、プロジェクトを遂行するにも必要な力でしょう。

栗田 聡(元・広島東洋カープなど所属)

プロフィール

1964年8月3日生まれ、兵庫県明石市出身、小学校から野球を始めていました。

小学生からの同級生の三木谷浩史とともに兵庫県立明石高等学校に進学、卒業後には三菱重工神戸に入社しました。

1986年のドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受けて、1987年に入団します。
「第二の大野豊」として期待されていましたが、1軍登板前に肩を痛めてしまいます。

その後もひじ、ひざ、首などをケガ、1軍登板がないまま、1990年には自由契約になってしまいます。

1991年にテストを受け近鉄バファローズに入団し、登録名を栗田 智史に変更、心機一転します。
近鉄ではコンディションコーチの指導のおかげで、ケガは回復に向かいますが、1軍登板はなく、1991年のシーズン後に引退を決めます。

翌1992年から2年間、阪神タイガースで打撃投手として活動しました。

現在の活躍、実績に至るまで

阪神タイガース退団後、自身の経験からコンディショニングに興味を持ち、関西医療学園専門学校に通い始めます。

アルバイトと通学を両立すること3年、1998年に元プロ野球選手初となる理学療法士の国家資格を取得します。
理学療法士として勤務していた病院に、近鉄バファローズの選手が通院したことをきっかけに、球界に理学療法士として復帰します。

1999年には、近鉄バファローズでコンディショニングコーチ、2005年には東京ヤクルトスワローズで理学療法士として、リハビリ担当のフィジカルディレクターに就任しました。

2013年から1年間は、シカゴカブスアスレティックトレーナーとして渡米しました。

現在は理学療法士としてトレーニング教室主宰

今は、野球少年らを中心としたトレーニング教室・栗田塾を主宰しています。
経験から、「野球少年の夢をケガで終わらせたくはない」という想いが強いとインタビューで語っています。

全国各地のスポーツ施設などでコーチをしたり、理学療法士として講演などをしたりと、精力的に活動しています。

現在は、医療系スタートアップ企業が手掛ける高速・高精度運動動作解析ソリューションの開発にも関わり、野球の動きをデータ化し、ケガ防止やリハビリへの活用を狙ってます。

プロスポーツ選手の選手生命は、自身のがんばりだけでなく、コーチやトレーナーに支えられることも多いと知っているからこそです。

理学療法士は、国家資格で、大学や短大、専門学校で3年以上学び、所定の課程を修了して、やっと受験資格を得ることができます。
体の運動機能の回復を援助する仕事なので、プロスポーツの分野だけでなく、介護施設や病院などでも需要がある資格です。

患者さんを支えることもあるので、体力が必要ですし、根気やポジティブシンキングも必要です。

桧山 泰浩(元・近鉄バッファローズなど所属)

プロフィール

1967年4月11日生まれ、福岡県直方市出身、東筑高校時代には投手で4番として、3年春に甲子園出場を経験しています。

1985年のドラフト会議で、清原和博の抽選に外れた近鉄から、「外れ1位」指名を受け、1986年に近鉄バファローズに入団しました。

1987年には、アメリカ・ルーキーリーグのソルトレイクシティ・トラッパーズに野球留学します。
1991年に一軍未出場のまま退団、のちのインタビューでは、5年目を迎えるころには「もう体も鍛えようがない。技術が上がるとも思えない」と考えていたそうです。

近鉄バファローズから退団直後、張本勲から韓国プロ野球入りの打診があり、翌1992年にはサンバンウル・レイダースに入団します。
しかし、オープン戦で肘を故障、1年で退団に至り、プロ野球選手として引退しました。

現在の活躍、実績に至るまで

韓国の野球チームを退団した直後には、知り合いから連絡があり、衣料品関係の会社に社会勉強のつもりで2年間勤務を始めます。

そんな生活の中、資格取得を目指すことを意識しました。食べていける資格=士業の中で、大卒でなくても受験資格を満たすのが「司法書士」だったので、目指してみることを決意しました。
(その後、受験資格緩和により、公認会計士も高卒で受験資格を得る方法があります。)

司法書士試験の合格率は3%ほどで、かなり過酷な勉強でしたが、「私には野球界での苦労や挫折がありましたから、それに比べたら受験勉強なんか、屁みたいなもんでしたよ」と後に振り返っています。

現在は司法書士として事務所を構える

難関資格ながら、2度目の挑戦で司法書士資格を取得できました。

もともと通っていた高校は福岡県内でも1,2位を争う偏差値の高さで 基本の学力もありましたが、プロスポーツ選手として培った集中力も関係しているでしょう。

1997年に事務所を開業、1年目から同年代のサラリーマンよりは収入があるほど順調だったそうです。

その理由をインタビューでは、「この仕事は紹介によって成り立っているので、プロ野球選手だったことも役に立っているでしょう。」と語っています。

現在は司法書士として講演もこなし、早稲田セミナー専任講師も兼任しています。

司法書士は、個人や企業などの依頼で、法律に関する書類作成や法律上の手続きを代行する仕事です。
不動産登記、商業登記、供託、裁判事務などが主な業務になり、簡易裁判所では訴訟額が140万円以下であれば、弁護士と同様の業務ができます。
弁護士よりも身近な法律家と表現され、今後は高齢化が進んでいることにより、成年後見制度の業務や遺言や相続に関する業務が増えてきて、ますます需要がアップする士業と見込まれています。

おわりに

異業種への転職を成功させたプロ野球選手たちは、一度自身のできること、できないことを棚卸しして、現状把握から始めている人が多い傾向にあります。
幼少から野球一筋で生きてきた選手は、社会のことを何も知らないことを自覚し、まずはがむしゃらにでも頑張ることから始まっている人もいます。もしくは、自身の経験から興味のある分野を見つけて、取り組みだした人もいます。

一般社会人の異業種の転職でも、自己分析は重要です。

どんな職業に転職したいかだけでなく、実際の転職活動でも自己PRや面接などでも活かせます。将来のことも考えながら、自身の強みや発揮できるシーンなどを明確にしていくのがいいでしょう。

また、どんな経験だとしても、そこから学んだことは何かしらあるはずです。その点も、自身で振り返ってみましょう。元プロ野球選手も、戦力外通告を受け引退したとしても、学んだことの価値があるのです。転職活動に自身の経験を活かし、成功を目指しましょう。

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