サッカー選手から異業種転職をした人10選 異業種転職は熱意で何にでもなれる!

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異業種への転職を考えていても、一般的に難しいと言われることも多く、なかなか踏み出せない人も多いでしょう。ここでは、プロのサッカー選手として活躍した後、異業種へ転職し、見事にセカンドキャリアで成功している10名の元プロサッカー選手をご紹介します。

一般的に考えれば、華々しいプロスポーツ界で活躍した経験がある人が、一般社会で経営者や会社員などとしても成功するのはあまりイメージできないでしょう。

サッカーに限らず、プロスポーツ選手のセカンドキャリアは、ひとつの社会問題ともされているほどです。しかし、実際には異業種転職に成功した人もいるのです。

そんな難しい傾向の転職に成功し、別なフィールドで活躍する元プロサッカー選手は、ほぼ一般社会の経験なしにどうやって成功したのでしょうか?

特に難しいといわれるプロスポーツ選手の異業種転職での活躍だからこそ、一般の社会人の異業種転職にも学べることがあります。異業種転職に向かって一歩前に進めます。

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嵜本 晋輔(元・ガンバ大阪所属)

プロフィール

1982年4月14日生まれ、大阪堺市出身、小学校4年生からサッカーをはじめました。関西大学への進学と同時にスカウトでガンバ大阪への入団も果たす、華々しいプロサッカー選手としてのキャリアスタートだったのです。

入団1年目の2001年から公式戦に出場、活躍しましたが、その後は出場機会に恵まれないまま、3年目の2003年にガンバ大阪から戦力外通告を受けて退団してしまいました。

翌2004年は、当時JFLに加盟していた佐川急便大阪SCでプレーを続けましたが、結局そのシーズン限りで引退することとなってしまいました。

実は、佐川急便大阪SC在籍中に、兄2人と共同出資でMKSコーポレーションを設立しており、それが現在のセカンドキャリアのはじまりになっています。

現在の活躍、実績に至るまで

佐川急便大阪SC在籍中の2004年6月に、2人の兄と設立したMKSコーポレーションでは、もともとも家業であったリサイクルショップで学びながら事業展開をしていました。

サッカーを引退し、本格的に会社で働き出したのは2005年、翌2006年には、ブランド品買取専門店「なんぼや」をオープンしています。家業のリサイクル業務をリユースとすれば、事業拡大ができるのではないかと、以前から可能性を感じていたそうです。

会社としての転機は、2008年7月の新事業で阪神本線・西宮駅前にて洋菓子店「パティスリー ブラザーズ」の1号店を開店した頃でしょう。

この事業が3兄弟経営の珍しさもあり大成功、2011年9月には、今では知名度も高い焼きたてチーズタルトの専門店「PABLO(パブロ)」を出店しました。この時点で、MKSコーポレーションの年商は20億円に達していたのです。

兄のインタビューでは、3兄弟での会社を始めたころから、長男はファッション、二男は料理を目指し、三男の嵜本は家業のリユースに可能性を感じていたそうです。

3兄弟の中の三男は、「どんな時も冷静に物事を判断出来るタイプ」と兄は描写しており、これはサッカーを通して身につけたものなのでしょう。

2016年2月にMKSコーポレーションは株式会社Days&Co.Groupに社名を変更しております。

現在は代表取締役社長、買い取り事業を分社化・独立

2011年、MKSコーポレーション(現:株式会社Days&Co.Group)から買取事業を分社化・独立し、株式会社SOUを設立、代表取締役社長に就任してます。

MKSコーポレーションでは、家業であったリユースの可能性に着目し、当初からブランド買取店「なんぼや」を担当しており、SOUでは「なんぼや」の更なる多店舗展開しています。

また、BtoBオークション事業の「STAR BUYERS AUCTION」、予約制の買い取りサロン「BRAND CONCIER」、BtoC販売事業「BRAND RESALE SHOW ZIPANG」などの新規事業運営にも積極的です。

リサイクルからリユースへ、またチャネルを特化させたりする時代に合わせた転換をしたのが、事業成功のキーになっているでしょう。株式会社SOUは、従業員は300人を超え、2016年度の売り上げは219億円をマークしています。

 

 

 

薮崎 真哉(元・柏レイソル所属)

プロフィール

1978年6月1日生まれ、千葉県千葉市出身、1995年の全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝し、1997年に高校卒業後にJリーグの柏レイソルに入団しました。6年間在籍するも、なかなか出場機会に恵まれず、6シーズン目の2003年には、戦力外通告を受け退団しました。

現在の活躍、実績に至るまで

退団時に全くキャリアプランはなかったものの、多くのアスリートがそうであるように飲食事業で独立開業を目指そうと考えました。

修行も兼ね、銀座のダイニングレストランに就職し店長としてがむしゃらに働きましたが、あまりの低賃金に半年で退職してしまうのです。

その後、しばらく警備や運送会社の日雇いアルバイトで日銭を稼ぐ生活をしていました。

これではいけないと悩んだ末、飲食関連の出店コンサルティング会社に営業職として入社します。2年以内の独立を目指し、5か月目には1000万の利益を出すトップ成績をたたき出したのです。

この時、「努力は裏切らない」、「夢を叶えることの大切さ」というサッカーから学んだ信念のもと、必死に働いたとインタビューで振り返っています。営業職の時の夢は、「2年以内に独立」「年収は1000万円でスタート」(職種は)何でもいい」だったそうです。

2008年に、Webリスクコンディショニング事業を主にするIT企業「株式会社ジールコミュニケーションズ」を設立します。誹謗中傷などの風評被害などのWebリスクコンサルティング、インターネット広告などの製作をするWebマーケティングを事業の中心にしています。

2013年には、新事業として体育会系学生の就職支援のための採用コンサルティング事業を手掛ける「株式会社ジールアスリートエージェンシー」を設立して、自分の経験も活かす事業をしています。引退後のアスリートだけでなく、アスリート系学生の新卒紹介サービスや人材育成研修なども展開しています。

現在はITコンサルティング、3社の代表取締役

2014年、グループ会社2社の中核となる「株式会社ジールホールディングス」を設立し、3社の代表取締役、またITコンサルティングとしても活躍しています。

2016年シーズンからは、柏レイソルのユニフォームスポンサーにもなり、かつてのチームへ、またサッカーへの恩返しをしています。

「株式会社ジールホールディングス」は、2016年グループ連結で資本金が1億1,500万円、従業員は従業員数120名にのぼり、社員が成長すれば、また別な事業へのチャレンジも考えているそうです。

 

 

 

佐野 克彦(元・清水エスパルス所属)

プロフィール

1988年4月30日生まれ、静岡県焼津市出身で、2004年~2006年には清水エスパルスユースですでに大活躍していました。

18歳で当時のU-19日本代表入りを果たし、将来を嘱望された選手の一人だったのです。2007年、清水エスパルスに入団しましたが、入団会見の10日後には、前十字じん帯断裂に半月板損傷という全治7ヶ月の大ケガを負ってしまいます。

その後もケガの連続により、清水エスパルスでは一度も試合に出場することなく、戦力外通告されました。

戦力外通告を受けた当時はまだ21歳で、2009年12月にトライアウトを受けるもオファーはなく、結局引退を余儀なくされてしまったのです。

現在の活躍、実績に至るまで

清水エスパルスでの現役2年目にすでに結婚、第一子にも恵まれていたので、家族を養うことを一番に考えたと、のちのテレビ番組インタビューで語っています。

高卒で、資格がなくても入れる仕事を探しつつ、アルバイトをしながら生活を支えました。そのかたわら、予備校に通い、地方公務員を目指して、毎日10時間の猛勉強をする生活が1年間ほど続いたのです。

現在は警察官

引退後の約1年間の猛勉強で、2010年には静岡県警の試験に合格、無事採用されました。2015年9月には、巡査部長に昇進したそうです。

高卒者の転職で30歳以内なら、警察官や初級地方公務員は異業種転職の選択肢のひとつになるでしょう。

警察官への転職には、元プロサッカー選手としての体力や過酷なプロの世界でやってきた精神力などが、採用試験で有利になった可能性も高いでしょう。それまでのキャリを活用している転職ともいえます。

静岡県警の高卒程度で受験可能な試験は、警察官または警察行政職員があります。

平成28年度静岡県警採用試験結果によると、高卒程度で受験可能な警察官Bは、公告数が一般職の男性103名、女性14名、情報処理2名であり、倍率は一般男性3.2倍、女性5.9倍、情報処理は1.0倍でした。

倍率は低くはないですが、将来的な安定性や社会貢献度が高い職業ですし、学歴によりはっきりと区分けされているので、目指しやすい職業のひとつでしょう。

異業種転職で警察官などの公務員を目指す際には、年齢制限と受験資格に注意すると、自治体により、社会人経験重視や実績重視の募集も多くあります。また、以前に比べると、年齢制限も緩和されているので、チャンスが広がっています。

杉本 倫治(元・セレッソ大阪など所属)

プロフィール

1981年6月17日生まれ、奈良県天理市出身です。奈良県立耳成高校(現・畝傍高校)時代、チームの監督が当時のセレッソの強化部長と知り合いで、監督からセレッソへの紹介により、加入テストを受験するチャンスをつかみました。

テストに見事合格し、セレッソ大阪に加入したのです。
そのころのセレッソ大阪は、森島寛晃などスター選手が在籍する人気のチームで、テストで入団した杉本は目立つ活躍のないまま1年目を終えてしまいました。

しかし、プロ2年目の左サイドMFにコンバートされたのが好機となり、チームで活躍するだけでなく、2001年にはU-20日本代表候補、2003年にはU-22日本代表を経験しました。

これらの国際大会を通じ、試合で実践を重ねることが大切と実感、より実践への出場機会が欲しいと考え、自ら移籍を申し出るのです。

2003年8月~12月、ヴァンフォーレ甲府にレンタル移籍します。しかし、甲府の気候に馴染めず、そこでは出場機会に恵まれないまま戻ることになってしまいました。

そして、戻った所属先のセレッソ大阪から、契約満了による事実上の戦力外通告を受けてしまいました。

サッカーを続けたいという強い気持ちがあり、2004年~2005年には横浜FCに移籍して現役を続行させました。

しかし、2004年シーズン中に左ひざじん帯の炎症というケガを負い、2005年には出場機会が完全になく、二度目の戦力外通告を受けてしまったのです。

合同トライアウトなどにも挑みましたが、オファーがなく、結局2005年、6年間の現役生活に終止符を打つのです。サッカーへの思いが強く、2008年には、大阪府2部リーグのホクセツFCで現役復帰を果たすしたこともありましたが、この時も戦力外通告でキャリアを終えてしまいます。

現在の活躍、実績に至るまで

その後、故郷である奈良県で、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めましたが、何か体を使う職業に就こうと考えていました。

妻のすすめで、消防士になる覚悟を決め、半年間、専門学校に通って必死に勉強しました。

どの努力の成果が報われ、2008年に見事試験に合格しました。当時35歳だったので、希望した奈良県内の消防局の受験は年齢制限で受験できなかったのですが、大阪市消防局から合格通知を受けることができたのです。

その後、消防学校で出会った救急救命士の教官に感銘を受け、今度は“救急”に関わりたいと思いが強くなってきました。

救急救命士の資格を取得するためには、半年間の救急救命士養成所での訓練ののち、さらに国家試験に合格しなければなりません。

また、実務経験も必要なのです。転職したばかりだったので、しばらくは消防士として経験を積み、必要な実務経験を満たした入局から4年後の2011年、やっと救急救命士の資格を取得します。

しかし、最終的に救急救命士として働くには、さらに倍率の高い内部の筆記選考試験をパスしなければなりませんでした。

現在は救急救命士

内部の筆記試験にも合格したのち、現在では救急救命士として働いています。救急救命士は、朝9時から翌朝9時まで24時間の勤務体制で、過酷な職場といえます。

インタビューでは、「助けられる可能性のある人を助けたい。そうした思いが、やりがいになっています。」「病院に行きたくないという方もいれば、受け入れ先の病院がなかなか決まらないこともあり、すごく難しい仕事です。高度なコミュニケーション能力が求められます。」と語っています。

また、救急車は3人、消防車は4人で一つのチームとなって動くので、チームプレーの重要性にはサッカーの経験が活きているでしょう。異業種への転職者へ、「空き時間に資格を取るようなことをしておくとすごく役立つ」と答えています。

長くケガで低迷しましたが、なかなか諦めがつかなかったものの、家族への思いが固い転職への決意になったと、後のインタビューで語っています。

内田 利広(元・セレッソ大阪など所属)

プロフィール

1972年8月12日生まれ、長崎県出身で、小学生時代に地元多比良少年団でサッカーをはじめ、全日本少年サッカー大会で準優勝することから、華々しいサッカーキャリアをスタートしています。

中学時代に国見中学で全国中学校サッカー大会準優勝、高校時代に国見高等学校で全国高校サッカー選手権大会優勝の実績をおさめ、U-17サッカー日本代表にも選出されます。

1991年に明治大学に入学し、在学中には、バルセロナ五輪予選代表にも選出されてました。卒業後、1995~1996年は名古屋グランパスエイトに在籍しますが、わずか1試合の出場にとどまり、1997年にはセレッソ大阪に移籍しました。

セレッソ大阪でも思ったような成績を残すことができないまま、2000年に現役を引退して、セレッソ大阪ユースのコーチをすることになりました。

現在の活躍、実績に至るまで

セレッソ大阪のコーチの後に、一度キャリアチェンジをして、雲仙市市役所職員として働いています。

雲仙市は、2005年に国見町・瑞穂町・吾妻町・愛野町・千々石町・小浜町・南串山町が合併して発足した市で、出身地であるサッカーが盛んな土地です。行政単位で、サッカーイベント誘致などにもかなり積極的に取り組んでいます。サッカーのキャリアを活かしつつ、地元に貢献できる機会だったでしょう。

その後、長崎からJ1チームを出したいという有志とともに、2005年にはV・ファーレン長崎で選手兼コーチとして現役復帰し、1年後にはコーチ専任として活躍しました。

現在は国見高校総監督

現在は、母校国見高校で総監督としてチームを率いています。(2017年12月現在)かつては全国大会常連校のひとつ、その中でも強豪と言われた国見高校ですが、当時の小嶺忠敏監督が2004年に退任して以来、全国大会とは縁遠くなりつつあります。

そこで国見高校では、OBで元Jリーガーの3名、内田利広総監督、小嶺栄二監督、木藤健太部長の布陣で、再度サッカー強豪校の国見高校としてのブランディングに挑戦しています。

セレッソ大阪ユースのコーチ時代から、母校国見高校で自身がコーチをしたり、Jリーグ選手当時の仲間を紹介したりと関わりを深く持っていたようです。

公務員として安定した職業で地元に戻り、地元で再度キャリアを構築していくのはUターンで異業種に転職をしたい人のいい手本になるでしょう。

八十 祐治(元・ガンバ大阪など所属)

プロフィール

1969年10月31日生まれ、大阪府高槻市出身で、兄弟の影響により小学校4年生のころから大阪府立本格的にサッカーを始めました。

高校は、地元近くの茨木高校に進学し、サッカー部に入部、卒業後には、一浪人して神戸大学経営学部に入学しました。

神戸大学のサッカー部から、1993年にガンバ大阪に入団します。その後、1995年にはヴィッセル神戸、1996年~1997年にはアルビレックス新潟とJ1チームを渡り歩きました。

1998年~2000年には、横河電機サッカー部(現・横河武蔵野シティFC)に移籍します。入社当時から、一部社員にサッカー入社と言われたことがあり、引退後に関連会社に勤めることになった時には、自分はこのままでいいのかと疑問を持っていたのです。

のちのインタビューでは、大学卒業後のプロを含めた8年間は力を出せずモヤモヤとした悔しい時間だったと振り返っています。

そんな気持ちもあり、2000年には人材派遣会社に転職し、営業をしながら、教員免許を取得しました。

しかし、それでは終わらずに、今度は「仕事をしながら日本で一番難しい司法試験に合格して、周囲を見返そう」と思い、予備校に通いながら司法試験の勉強を始めます。それが2001年の春、31歳から始めた司法試験への挑戦は、想像以上に過酷を極めていきます。

現在の活躍、実績に至るまで

営業の仕事に加え、1日6時間以上の勉強と週3回の夜間法律専門学校と、ほぼ年中無休の生活を続け、2年間で受けた2度の司法試験は、いずれも合格ラインには全く届かない不合格に終わってしまいます。

3次まである司法試験の1次すら通過できない状況でしたが、その生活を継続し、弁護士を目指す決意は固かったのです。

3度目の試験で不合格になった2003年には、人材派遣会社を退職し、司法試験の勉強1本に絞り込みます。その頃にはプロで鍛えた精神力もさすがに疲れてきたと、のちのインタビューで本人が振り返っています。

家族と妻の支えで、2005年には4度目の試験で合格率3%の司法試験に合格を果たし、やっと本格的なセカンドキャリアをスタートします。

現在は弁護士

2006年4月~2007年9月の司法修習を経て、2007年に大阪弁護士会に弁護士登録を果たします。

現在は、関西を中心に刑事・民事事件に加え、相続や離婚問題などの分野で、大阪市北区にある摂津総合法律事務所に所属する弁護士として活躍を続けています。

弁護士は、「サッカーと同じように、刻々と変化する状況に、即座に対応し、様々な選択を迫られる場面に遭遇することは多々あり」、それでも冷静な対応ができるのは、プロサッカー選手として培った経験からだと語っています。

以前は法科大学院を修了しなければ、司法試験には挑戦できませんでした。

しかし現在は、2011年から始まった司法試験予備試験に合格すると、法科大学院修了者と同等レベルとみなされ、高卒でも司法試験を受験する資格を得ることができます。

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箕輪 義信(元・川崎フロンターレなど所属)

プロフィール

1976年6月2日生まれ、神奈川県川崎市出身で、神奈川県立弥栄西高等学校から、1995年に仙台大学に進学しました。大学自学中には、ユニバーシアード代表にも選出されてました。 大学卒業後の1999年には、ジュビロ磐田に入団します。

2000年9月までジュビロ磐田では出場機会を得られず、本人の意思で地元である川崎フロンターレに移籍になりました。

2001年シーズンから、川崎フロンターレではレギュラーを確保、体格を活かし守備の要として活躍します。

2005年8月の東アジア選手権での日本代表入りが内定した時、突発性難聴を発症してしまいます。治療には、制限された薬物を使用する為、正式な代表発表がある前に辞退することになってしまうのです。

2007年末からは、グロインペイン症候群に悩まされます。サッカー選手に多い病気で、股関節の付け根の怪我であり、ボールを蹴る時や走る時など限定的な運動時痛が起こる病気です。リハビリの為に、2008年は戦線を長期離脱することになってしまいました。

その結果2008年6月~12月は、コンサドーレ札幌にレンタル移籍され、試合出場を果たすもコンサドーレはJ2降格になってしまいます。

2008年10月、当時29歳の時に、Jリーグ発足以来最高齢の日本代表として東欧遠征のメンバーに選出され、話題になりました。

その代表選では、試合終了間際に微妙な判定ながら相手にPKを献上するファウルを取られてしまいます。それが唯一の日本代表としてピッチにあがった戦いになったのです。この1度の日本代表選の経験は、キャップ1といわれています。

のちのインタビューで、この経験は「少なからず後のキャリアに影響を与えた」と語っています。

レンタル移籍中のコンサートサッポロの試合で、右足腓腹筋腱断裂・全治3~4ヶ月の怪我を負ってしまい、2008年のシーズンを終えました。

それでもコンサドーレ札幌は、2009年に契約を敢行してくれて完全移籍となります。

しかし、4度のアキレス腱の手術などを重ねるも怪我が回復することはなく、2009年、2010年と出場機会できないまま、コンサドーレ札幌とは契約期間満了になってしまうのです。

引退の決意をさせたのは、東日本大震災だったそうです。

そして、2011年9月23日、所属元の札幌で現役引退が発表となりました。

現在の活躍、実績に至るまで

引退後は、もともと就きたかった教師への道を選びます。遠回りにはなりましたが、地元川崎に戻ることを決意します。

現在は保健体育科の学校教諭

2012年4月に、神奈川県立新城高等学校に赴任しました。そして、2017年4月より神奈川県立菅高等学校に赴任しサッカー部顧問、自身は神奈川県のシニアチームの選手としても活躍しています。

教諭として働き始めたころ、スポーツを通して学べることがあるのかといわれ、ショックを受けたとインタビューで語っています。

自身のプロとしてのキャリアの中で、度重なるケガや病に襲われたことから学んだことが多かったからでしょう。

神奈川県の公立学校教員採用候補者選考試験では、教員普通免許状を所有している人には教職経験者、社会人経験者、スポーツ・芸術実績者、英語資格所有者などかなり広い門戸を用意しています。

また、平成29年度実施試験では、年齢制限を昭和 33 年4月2日以降に出生した人としています。公表されている結果から、神奈川県の公立高校保健体育科が倍率10倍を超えていますが、それまでのサッカーの経験を活かし、難関を突破したのでしょう。

他の自治体でも、転職者でも受験できる社会人経験者向けの公立学校教師への道が開かれています。

 

 

小杉 敏之(名古屋グランパスエイトなど所属)

プロフィール

1968年6月20日生まれ、東京都出身、父は旧近代映画社社長、母は元宝塚歌劇団団員の家庭に育ちました。

暁星高等学校、同志社大学でのサッカーの経験から、1992年に名古屋グランパスエイトに創設メンバーとして入団しました。

1996年には、当時のJFLのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に移籍しています。

現役生活で公式戦63試合に出場した成績を残し、1997年に引退しました。

現在の活躍、実績至るまで

仙台の所属チームから指導者に勧誘されていましたが、名古屋グランパスエイト在籍中に、広報部に中日新聞社から出向してきていた担当者がおり、サッカー引退後のキャリアのひとつとして、新聞記者を勧められていました。

グランパスエイト在籍中は、マスコミ対応のよさから記者にもファンにも人気の選手だったのです。

選手時代から、コミュニケーション能力が高かったと思われ、そこに広報担当者は目をつけたのでしょう。

29歳でサッカーを引退し、まずはアルバイトとして中日新聞社で働き始めます。

社会部所属警察担当の記者でしたが、当時から経験を活かし、1998年のワールドカップフランス大会の日本代表戦観戦記なども執筆していたようです。

のちに、運動部に異動、サッカー担当として日本代表戦や日韓共催ワールドカップなどの取材は、独自の評価で人気の記事になっていました。

現在はヨーロッパから戻り、引き続き新聞記者

その後は、東京の経済部に異動したのち、2011年にはヨーロッパ総局(ロンドン)に勤務になりました。

2015年10月から、中日新聞の名古屋グランパスの記事に署名が入っているものがあり、現在は日本に戻って、運動部で活躍されているようです。

通常、新聞記者は政治、経済、国際問題など、それぞれ専門の分野を担当することになりますが、

小さな規模の支局などでは、政治、経済から文化、スポーツまで、あらゆる分野を担当することになるでしょう。

情報収集に必要なコミュニケーション能力や情報のギブアンドテイクのテクニックなどは、かつてプロ選手として取材される側になったこともある経験が活かされていることでしょう。地道な取材になることも多い新聞記者は、生活は不規則になりがちですが、それもプロスポーツ経験者の体力が活かせるところでしょう。

 

 

 

三上 和良(ヴィッセル神戸など所属)

プロフィール

1975年8月29日生まれ、埼玉県浦和市出身、実弟はサッカー指導者の三上卓哉と兄弟でプロサッカー選手と活躍しました。三菱養和サッカースクールのジュニアユースチームに所属し、幼少時代から本格的にサッカーに取り組んでいました。

桐蔭学園高等学校、駒澤大学に進学、大学卒業後の1998年、ヴィッセル神戸からキャリアをスタートすることになります。

ヴィッセル神戸でディフェンダーとして活躍している中、2000年にはヴェルディ川崎にレンタル移籍され、ヴェルディでも実績を残しています。

2001年には、ヴィッセル神戸では出場機会に恵まれず、シーズン途中にジェフユナイテッド市原にレンタル移籍されます。そこでも、数試合に出場しました。

2002年~2003年には、完全移籍先の横浜F・マリノスで、キャリアを積んでいきます。2004年は大分トリニータ、2005年~2006年 大宮アルディージャ、そして2006年シーズン限りで現役引退をしました。

現在の活躍、実績に至るまで

浦和駅東口から徒歩1分の場所にある、落ち着いた雰囲気の和風ダイニング「升楽泡(しょうらくぼう)」は、2006年5月1日にオープンした飲食店です。

この飲食店のオーナーは、三上 和良です。実は、大宮アルディージャに在籍していた現役最後のシーズンには、すでに実業家として活動していたのです。

いつか居酒屋を経営してみたいと思っていたところ、実家が所有しているビルで飲食店の退去があり、当時はまだJリーガーながらその場所でのオープンを決意するに至りました。

現在は浦和にて飲食店経営

テレビや雑誌にも登場する、浦和では有名な飲食店になった和風ダイニング「升楽泡」は、豊富な焼酎や日本酒の種類だけでなく、国内産地鶏・黒豚肉を使った料理や、北海道を代表する大豆のブランド「とよまさり」を使用し店内で作っている豆腐も大人気です。

オーナーシェフとして腕を振るいつつ、全38席の店舗経営をしています。

飲食店の経営には、売り上げや在庫管理など数字に強いことも必要ですが、それは他の人にも任せられる場合にあるでしょう。

その人でなければできないことのひとつに、スタッフをまとめあげる人望も必要です。ひとりで何役もの役目をこなさなければいけないこともあり、体力と精神力も重要なので、プロアスリートの経験も間違いなく活かされているでしょう。

大谷 圭志(FC東京など所属)

プロフィール

1983年4月17日生まれ、群馬県伊勢崎市出身で、双子の兄である元サッカー選手の大谷昌司とともに、小学校3年生の時にサッカーを始めていました。

1999年に、サッカーの名門と言われる前橋育英高等学校へ進学します。在学中には、U-18日本代表の中心選手としても活躍しました。高校3年時には、チームで主将を務めるまでになりましたが、同年度の全国高校選手権本大会直前に左膝前十字靭帯断裂というケガを負ってしまいます。

この時は、手術を延期してベンチ入りし、チームを鼓舞するサポーター役に徹します。高校時代のケガは、この先のサッカー人生におけるケガとの戦いのはじまりでした。

ケガをした時には、すでに進路は決定しており、2002年の高校卒業と同時に、JリーグのFC東京に入団します。

しかし、まずは長期のリハビリ、練習に合流できたのは2002年の11月でした。それでも、2004年に入った頃には、安定したプレーができるようになり、2004年6月には、JFL・ザスパ草津へ期限付き移籍をします。

ザスパでは、希望ポジションのボランチにレギュラーとして定着します。同シーズン後期の再度のケガによる退場に至るまで、チームに貢献し、翌年からのJリーグ昇格に大きく寄与しました。

2005年には、ザスパ草津へ完全移籍します。しかし、またの重傷のケガにより、この年をリハビリに費やし、2006年になんとか戦線復帰します。

2006年シーズン中には、チーム内で定位置を確保できず、この年限りで契約満了、プロサッカー選手生活から退くことを決意しました。

現在の活躍、実績に至るまで

大谷には、他のサッカー選手と違う点がありました。

引退してからのインタビューで明らかにしていますが、「正直なところを話すと、実は僕、プロになっても4年で辞めようと思っていたんです。」と語っています。

高校在学中には大学に行きたい気持ちもあったものの、高校サッカーの監督から「大学はいつでも入れる。4年後にプロになれるとは限らない」とアドバイスされプロへの道を決断、ただし4年間、長くても25歳になったらサッカーから離れようとも決めていたのです。

25歳~30歳の5年間で社会にもまれて、それ以降は一人の社会人としてやりたい仕事に就きたいと考えていたといいます。

現在は会社員(営業)

引退のタイミングで、叔父が経営する、美容関連の用品を店舗に卸す“材料卸”の営業担当職への誘いをもらいました。

もともと、社会人として働くことをセカンドキャリアとして考えていたので、その申し出をすぐに受けます。

初めは、社会人としてのマナーもルールもよくわからないまま仕事を始め苦労も多かったのですが、人生のリスタートの覚悟はしっかり固まっていたので、楽しんで仕事ができたようです。

6年間のプロ生活、25歳でのキャリアチェンジを当初から思い描いていたといえ、新しい環境で楽しみながら現在の仕事をできるのは、プロでサッカーをできた環境に感謝できるようになったからだと語っています。

営業職の仕事は、売上をアップさせて増収に繋げることはもちろんですが、顧客の理想をかなえたり、新しい提案ができたりするガイド的な役割を担う職でもあります。

高校時代のキャプテンの経験もプロになってからのケガとの戦いも、悩みや迷いを解消するという点では、今の仕事に役になっていることもあるのではないでしょうか。

おわりに

プロスポーツ選手の引退後は、それまでのキャリアを全面に押し出した指導者などのケースのイメージですが、ここで紹介したように異業種への転職を成功させている人もたくさんいます。注目したいのは、華々しいプロの世界で活躍しても、その後は地道に活動したうえで転職を成功させている人も多くいるところです。

ケガなどの理由で、プロとして通用しなくなった辛い経験も、その後の糧にしています。

一般的な会社員の異業種転職では、30代前半が限度だといわれることも多いでしょう。

その理由のひとつには、社会人としての長い経験からのプライドが挙げられることが多くあります。

一般的な会社員でさえプライドがあるのですから、プロで活躍した選手の異業種転職では、このプライドの転換ができたかどうかがキーになっている傾向にあります。

また、一般的な社会を経験していないという自己分析に至り、公務員への転職のケースも多く見られるのも特徴でしょう。

冷静な自己分析や判断力は、選手経験からきているものなのでしょう。

それまでの人生または社会経験で、何も得ていないことはないはずですが、プライドと経験は別物です。

異業種への転職の成功には、冷静な自己分析の上のプライドの転換ができれば成功に近づけるでしょう。

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