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この記事ではプラトンについて解説しています。プラトンは西洋哲学の基礎を築いた古代ギリシアの偉大な哲学者です。プラトンの哲学思想ではイデア論を軸とする観念論哲学が有名ですが後世に伝えた業績は哲学のみならず政治学や自然科学など多岐にわたります。
この記事ではプラトンの生い立ちと生涯をはじめ、師のソクラテスや弟子のアリストテレスとの関係性、「イデア論」と「国家」などプラトンの代表的な思想と哲学について解説いたします。
プラトンとは
プラトンは古代ギリシアが生んだ歴史上最大の哲学者です。ソクラテスを師として哲学を学び、観念論哲学の「イデア論」を唱えました。主に対話形式で書かれた約30編の著作はほとんどが現代まで残されており、その内容は現代にも通じる多くの哲学的問題を含んでいます。
プラトンが後世の哲学者に与えた影響の大きさは計り知れません。20世紀にイギリスで活躍した哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは「ヨーロッパ哲学の伝統はプラトンに関する脚注にすぎない」と述べているほどです。
プラトンの生い立ちと生涯
プラトンは紀元前427年、古代ギリシアのアテナイの名門家に生まれました。名前の表記は英語ではPlaton、ラテン語ではPlato、古代ギリシャ語ではΠλάτωνです。ちなみにΠλάτωνは「広い」「平らな」「強い」「広い肩幅」といった意味を持つ言葉です。
プラトンは青年時代にレスリングの選手としても活躍した人で、一説には彼の体格や強さからレスリングの師が「肩幅が広くて強いやつ」という意味のあだ名で「Πλάτων」と呼んだのがプラトンの名前の由来とされています。本名はあきらかではありません。
若き日のプラトンはソクラテスのもとで哲学や対話術などを学びながら政治家を志しました。しかし紀元前399年に師のソクラテスが不当な裁判で死刑になると当時のアテナイの乱れた政治情勢に失望し、人間としての存在の根拠を哲学に求めるようになります。
39歳でアテナイを離れてイタリアのシケリア島を旅行。古代ギリシャの植民都市シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世と論争して機嫌をそこねたことから危うく奴隷として売られそうになったという逸話もありますが、真相は定かではありません。
シケリア旅行からの帰国してまもない紀元前387年頃、プラトンは40歳でアテナイ郊外のアカデメイア(アカデミー)に学園を設立。哲学をはじめ天文学や生物学、数学、政治学など幅広い分野の学問を教えました。
プラトンは紀元前367年に若くしてシュラクサイの僭主をついだディオニュシオス2世に哲人政治を伝授しましたが、政争に巻き込まれて国外に追放される憂き目に遭い、紀元前353年にディオニュシオス2世が暗殺されたことでプラトンがめざした哲人政治の実現は夢と消えてしまいました。
晩年のプラトンはアカデメイアでの教育と学問書の執筆にいそしみ、紀元前347年に80歳で亡くなりました。
ソクラテスとの関係性
若き日のプラトンはソクラテスから愛知者(哲学者)の思想を学びました。ソクラテスが非業の死を遂げた後、プラトンはソクラテスとの問答をまとめた対話篇を執筆。ソクラテスの問答法を改善し、のちの西洋哲学の根幹となる弁証法の原理を確立しました。
ソクラテスは古代ギリシアを代表する哲学者として知られていますが、ソクラテス自身は著作どころか一行の文章も残していません。後世の人々がソクラテスの思想や哲学を知ることができるのはプラトンが「ソクラテスの弁明」などの著作を残したことによります。
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アリストテレスとの関係性
プラトンが60歳のころ、43歳年下の若きアリストテレスがアカデメイアに入門します。アリストテレスはプラトンが亡くなるまで約20年ものあいだアカデメイアにとどまりました。
哲学者としてのアリストテレスがプラトンの強い影響を脱して独自の思想体系を構築した経緯については明らかではありません。超自然的なプラトンの思想と、それを批判して経験論哲学を提唱したアリストテレスの思想との関連性は現在も論争の的になっています。
アリストテレスは文学や歴史、美学,倫理、心理、論理、政治経済、物理、生物学など古代ギリシアで形成されたほとんどの学問領域に精通しており、それらを分類し総括したことで後世に多大な影響を与えました。そのため「万学の祖」と呼ばれています。
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プラトンの思想、哲学
プラトンの代表的な哲学思想としては後述の「イデア論」があげられます。プラトンの哲学は「プラトニズム」と呼ばれますが、現代では「肉体関係のない精神的な関係」という意味で「プラトニック(Platonic)」という表現も使われます。
プラトンは同性愛者だったという説もありますが「饗宴」という対話篇では「肉体に抱く愛より精神的な愛の方が優れている」と愛についてイデア論的観点から述べており、そこから「プラトニック=精神的な愛」という概念が定着したと考えられます。
またプラトンは「知識とは教師が一方的に教えるものではなく、弁論術によって伝達すべきもの」と考えました。そのためプラトンの著作のほとんどはソクラテスをはじめ複数の人物による対話編となっており、それらの人物にプラトン自身の思想を代弁させる形になっています。
「イデア論」とは?
プラトンが提唱した「イデア論」は、世界をイデア界と現象界の二元論で解明する観念論哲学の思想です。
イデア論によると、イデアは物事の本質であり、現実世界(現象界)とは全く異なる観念的な世界(イデア界)に存在する永久不変の完全な秩序とされています。
イデアは経験的な現実世界では知覚することができません。人は神を信仰し神の国を想起することによってのみイデアの存在を認識できるとプラトンは説いています。
プラトンの名言
プラトンが残した約30編の対話編のほとんどは奇跡的に現代まで残されています。その内容は高度に哲学的であると同時に文学的でもあり、現代に通じる多くの名言がちりばめられています。以下にプラトンの名言を3編ご紹介します。
プラトンの「国家」とは
プラトンの「国家」は全10巻の大著で、登場人物の対話を通じて理想の国政を論じています。プラトンの政治への関心は終生衰えず、哲学者が国を治めるか、または政治家が哲学を学ばなければ理想の国家は実現できないという哲人政治を提唱しました。
まとめ
- プラトンは古代ギリシアが生んだ歴史上最大の哲学者です。
- プラトンは紀元前427年、古代ギリシアのアテナイの名門家に生まれました。
- 若き日のプラトンはソクラテスから愛知者の思想を学びました。
- プラトンが60歳のころ、アリストテレスがアカデメイアに入門しました。
- アリストテレスは超自然的なプラトンの思想を批判して経験論哲学を提唱しました。
- プラトンが提唱したイデア論は世界をイデア界と現象界の二元論で解明する観念論哲学の思想です。
- プラトンは哲学者が国を治めるか、または政治家が哲学を学ばなければ理想の国家は実現できないという哲人政治を提唱しました。