パウル・クレーとは|作品の特徴や生涯、代表作を解説

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この記事では、「パウル・クレー」の生い立ちや生涯、特徴、代表作、文献について解説します。

美術好きな方でなくても「パウル・クレー」の名前は聞いたことがあるはずです。また、名前を知らなくてもパウル・クレーの作品がプリントされた独特な色彩と幾何学的なデザインのTシャツは見たことはあるでしょう。

パウル・クレーは、近代美術を語る上で欠かすことのできない存在です。この記事を通して、「パウル・クレー」の生涯や作品の特徴、代表作などについて学んで、社会人としての知識の幅を広げてください。

パウル・クレーとは


パウル・クレーは、スイス出身の近代美術を代表する芸術家で、彼の独特な美術理論は近代美術の重要な美術理論のひとつになっています。

パウル・クレーの生い立ちと生涯

1879年12月18日、パウル・クレーは、スイスの首都ベルン郊外にあるミュンヘンブーフゼーという小さな町に生まれました。音楽教師の父と声楽家の母という音楽一家の中で育ちながら、幼い頃から絵を描くことが好きで、祖母から絵を教えてもらっていたそうです。

また、音楽の面でもヴァイオリンの才能が認められ、11歳にはベルンのオーケストラ・メンバーに加わりました。1898年、ベルンの高校を卒業すると、クレーは、ドイツのミュンヘンで美術学校の入学を目指します。

翌年、美術学校に入学したクレーでしたが、在学期間は短くベルンに戻ると、半年間イタリアで放浪しました。1906年、ミュンヘン時代に婚約を交わしていたピアニストのリリー・シュトゥンプフと芸術家たちが集まるミュンヘンのシュヴァービング地区で暮らし始めます。

翌年には息子が誕生。クレーは、ピアノ教師として働くリリーの収入を頼りに、家事をおこないながら画家としての一歩を歩み始めます。そして、1914年、友人の画家と一緒に旅行した北アフリカのチュニジアで大きな感銘を受けたのです。

この時の日記に「色彩は私を永遠に捉えた」という名言が残されています。クレーが生涯探求し続けた「光」「色彩」にチュニジアの体験は大きな影響を与えました。しかし、第一次世界大戦が始まり、親しい友人を失い、クレーも従軍しました。

兵舎で描き続けながら発表した絵が評判になり、クレーの名前が知られるようになったのです。そして、1920年、戦後のドイツに設立された総合造形学校「バウハウス」に教授として招かれました。

辞任するまでの10年間、クレーは生徒たちに造形の基礎理論と色彩論を教え、多くの美術理論書を書き残しています。バウハウスを退職後、デュッセルドルフ美術学校の教授に招かれますが、ヒットラーの前衛芸術家への迫害が強まったため、1933年、スイスへ亡命します。

妻子と共に生まれ故郷のベルンに戻ったクレーは、質素なアパートで絵を描き続けますが、ドイツ国内の預金口座が凍結された状態で、生活は困窮します。さらに、皮膚硬化症という原因不明の難病に襲われ、1940年にこの世を去りました。享年60歳。

パウル・クレーの有名な作品のほとんどが、この時代に描かれたものです。クレーはドイツでは表現できなかった作品に専念し、数多くの大作やデッサンを描き残しました。特に最晩年の作品は人気が高く、ポスターやポストカードにもなっています。

クレーは、生涯スイス国籍を取得することができずにドイツ人として亡くなりましたが、ベルン市にある墓地には「パウル・クレー・センター」が隣接し、6千点あまりの作品が収蔵されています。

パウル・クレーの作品の特徴

パウル・クレーの作品の特徴は大きく2つあります。

  • 音楽を絵にした手法
  • クレーの作品には「ポリフォニー絵画」と本人が呼ぶ手法を使った作品が多くあります。「ポリフォニー」とは、複数の声部が複雑に絡み合った音楽のことで、バッハ以前に作曲されたものです。

    同じメロディーをずらして奏でる「カノン」やタイミングと曲調を変えている「フーガ」などは、ポリフォニーの例です。クレーは、このポリフォリーを抽象的な形と色彩で表現しました。

    音楽のように音が聞こえるという、クレー独特の絵画になっています。

  • シンプルで幾何学的な絵画
  • クレーは、ピカソに代表される「キュビスム」の影響も受けた作品が多くありますが、同時代のキュビスムの画家に比べ、円や多角形、平行線などのシンプルな幾何学図形で構成されているのが大きな特徴です。

    モチーフを観察して徹底的にムダを省くという絵画理論で、複雑な人の表情もシンプルな形で表現しています。

    パウル・クレーの代表作


    パウル・クレーは、生涯にわたり約9,500点もの作品を描いています。その中でも代表的な作品を4つ紹介します。

    1922年『セネシオ』

    バウハウスの教授時代に描かれたキュビスムを代表する作品。タイトルの『セネシオ』は、キク科の「セネシオ」と老人を意味する「senex」から名付けられました。シンプルな円や四角、垂直線などで人の表情や感情を表現した傑作です。

    若さにあふれた顔の半面と落ち着いた雰囲気の半面は、若さから老いへの変化を意味していると言われています。また、一説には40歳を過ぎたクレーの自画像では、と推測されています。

    1925年『金色の魚』

    『金色の魚』は、クレーの創作活動の中でももっとも盛んな時期に描かれた作品です。深海をイメージさせる暗いブルーの中で金色に輝くような魚。その圧倒的な存在に怯えるかのような周囲の魚たち。さまざまな想像をかきたてる作品です。

    『金色の魚』は、ヒットラーに稚拙な絵と酷評され「頽廃芸術」として、あざけりの対象になっていましたが、戦後スイスのオークションにかけられ、現在はドイツのハンブルク美術館に収蔵されています。

    1939年『忘れっぽい天使』

    皮膚硬化症という難病にかかりながらも、クレーは手に負担の少ない表現方法で作品を描き続けました。その代表的な作品が、線だけで描かれた『忘れっぽい天使』です。クレーが描いた天使の絵はこのほかにもありますが、特に人気を集めているのがこの作品です。

    クレーは、1921年に『新しい天使』という線画に水彩だけの作品を残していますが、『忘れっぽい天使』との因果関係はわかりません。しかし、シンプルな天使の絵には、さまざまな思いが込められていると想像できます。

    1940年『死と炎』

    パウル・クレーが亡くなる1940年に制作されたのが『死と炎』です。まるで洞窟に描かれた壁画のような絵画で、ドイツ語の「死」を意味する「トート(Tod)」のアルファベットが使われています。

    人の顔や動物の頭蓋骨を連想させる中央の人物と輝く太陽は、人の創造と限りある人の命をイメージしています。クレーが味わった苦しみを表現した作品と言えるでしょう。

    パウル・クレーに関する主な日本語文献

    cf.
    パウル・クレーに関する主な文献には、『造形思考』と『クレーの日記』があります。

    『造形思考』

    『造形思考』は、パウル・クレーがドイツのバウハウスで講義をしていた時代に書いた論文や講義ノートなどを集大成したものです。この書籍には、ただの理論ではなく実際に作品を作り上げている芸術家が実践と試行錯誤の末築き上げた抽象に関する理論が語られています。

    静的と動的・リズムとポリフォニー・抽象化したイメージの絵画への定着化など、パウル・クレーの表現の核となる思考が解説されています。芸術を追求する若者にはおすすめの一冊です。

    『クレーの日記』

    『クレーの日記』は、クレーの死後遺された4冊のノートを基に息子フェリックスによって編集されました。イタリア旅行ではしゃぎまわった経験や異性への欲望、親友の死で味わった絶望感など、生々しいパウル・クレーの体験が描かれています。

    フェリックスによる編集では日記文学としての意味合いを強めるために、修正や加筆がおこなわれていましたが、最新版では可能な限りノートに忠実に再現されています。

    まとめ この記事のおさらい

    • パウル・クレーは、スイス出身の近代美術を代表する芸術家。
    • 音楽教師の父とピアニストの母に育てられ、11歳にはヴァイオリニストとしてベルンのオーケストラ・メンバーに加わる。
    • 高校卒業後、音楽を学びにドイツへ。放浪の末、ピアニストのリリーと暮らし、息子を授かる。
    • 総合造形学校「バウハウス」で教鞭をとり、次々と作品を描き上げるが、ヒットラーに酷評され、スイスへ亡命。
    • スイスの貧しい生活の中で、多くの作品を発表するも難病にかかり60歳で死去。
    • パウル・クレーの特徴は、「音楽を絵にした手法」と「シンプルで幾何学的な絵画」。
    • パウル・クレーの代表作は、『セネキオ』『金色の魚』『忘れっぽい天使』死と炎』など。
    • 主な日本語文献には、『造形思考』『クレーの日記』がある。