この記事では「世阿弥」について解説します。世阿弥と言われても、人の名前なのか物の名前なのか、なんと読めばいいのかも分からないという人もいるのではないでしょうか。世阿弥は教科書に載っていたけどよく覚えていないという人も多いと思います。
ここでは、世阿弥の生涯や功績、世阿弥の残した書や言葉を解説します。社会ではさまざまな年代や趣向を持った人と接することがあります。この記事で見分を広めることは社会人としての成長につながることでしょう。

世阿弥とは

世阿弥(ぜあみ)は、室町初期の能役者・能作者で、父である観阿弥(かんあみ)とともに能楽を大成した人物です。能楽とは日本芸能のひとつで、古くは猿楽と呼ばれていましたが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽と呼ばれるようになりました。

世阿弥の生い立ちと生涯

世阿弥は1963年(貞治2年)に、大和猿楽観世座大夫の観阿弥の子として生まれました。世阿弥は芸名で、世阿弥陀仏を略して世阿弥と呼ばれました。本名は観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)といいます。子供のころの名前は鬼夜叉、藤丸でした。
1375年(永和元年)、京都今熊野で観阿弥、世阿弥親子が能を演じたおりに、将軍足利義満が見物に訪れており、当時13歳だった世阿弥をいたく気に入り、義満の庇護を受けるようになります。摂政・関白の地位にあった二条良基も世阿弥に惚れ込み、翌年には少年だった世阿弥に「藤若」の名を与えています。

世阿弥は父、観阿弥とともに演を重ねていきますが、1384年(至徳元年)、世阿弥が22歳のときに観阿弥が52歳でこの世を去ります。世阿弥には弟(四郎)がおり、1398年(応永5年)、四郎の子、元重(のちの音阿弥)が誕生します。世阿弥は元重を後継者にしようと養子に迎えますが、3年後には実子が生まれています。後に元重は独立して音阿弥と名乗り、自ら地盤を固めていきます。

足利義満の庇護を受けていた世阿弥ですが、1408年(応永15年)、世阿弥46歳のときに義満が亡くなってしまいます。やがて足利義教が将軍の座に就くと、義教が音阿弥を贔屓にしていたこともあり、世阿弥は義教に冷遇され、活動の場を狭められてしまいます。
1432年(永享4年)世阿弥70歳のときには、後継者である元雅が伊勢の地で亡くなります。死の原因は分かっていませんが、暗殺ではないかという噂もありました。
そして元雅の死後2年後、世阿弥は72歳にして義教によって佐渡に流されてしまいます。佐渡といえば、当時謀反や殺人を犯した罪人が流される孤島です。その後のことは詳しく分かっておらず、没年齢もはっきりしていません。一説によれば、81歳でこの世を去ったといわれています。

「能」の芸術性を確立

世阿弥は父、観阿弥とともに「能」総合芸術として大成させ、現代まで生きる能芸の基礎を確立した人物です。多くの書を残していますが、「風姿花伝」は、能の芸術性を語った芸術論として現代まで読み継がれています。

あらゆるものを「幽玄」に演じることを追及

世阿弥は、あらゆるものを「幽玄(ゆうげん)」に演じることを追求しました。「幽玄」とは、奥深い味わいのあること、深い余情のあることをいいます。世阿弥はそれまでのものまねや言葉の面白さを中心とする能から歌舞中心の幽玄能に改変し、「夢玄能」といわれる独特の作劇法を完成させました。

世阿弥の父は「観阿弥」

世阿弥は父である観阿弥とともに能楽を大成しました。観阿弥は今日の能を代表する「観世流(かんぜりゅう)」を築き、足利義満の後援を得て能の基礎を大成します。作者としても優れていた観阿弥は、「自然居士 (じねんこじ) 」「卒都婆小町 (そとばこまち) 」などの作品を残しています。

世阿弥の代表作

数多くの「謡曲」を残している

世阿弥は能役者としてだけでなく、数多くの謡曲(ようきょく)を残しています(謡曲とは能における節と詞、または能の脚本そのものを指します)。
今ではあまり見なくなりましたが、日本の伝統的な結婚式では「高砂や~」とはじまる「高砂(たかさご)」が謡われる場面があります。この高砂も世阿弥の作品です。
この高砂の意味を簡単に説明すると、高砂と住吉という別々の場所に名木といわれる松が立っており、それを「相生の松」と言ったそうで、もとは同じ場所に映えた松が二つの場所に離れても、心はずっと同じであることを表わしています。

その他の謡曲の代表作には「弓八幡」「竹生島」「八島」「西行桜」などがあり、作品数は50を超えています。

能の理論書である「風姿花伝」

世阿弥は数々の芸論書を残しています。「風姿花伝」は父の観阿弥の教えに基づいて書き記した最初の能楽の理論書です。世阿弥の代表作であり、日本を代表する芸術論ともいわれています。1400年(応永7年、世阿弥38歳)までに第三までがまとめられ、残りはその後20年あまりをかけて執筆、改訂されたと考えられています。書名の「風姿花伝」は、能を「その風をえて心より心に伝ふる花」に例えて名付けられたとされています。
世阿弥は生涯を通じて「花」ということを追求しています。世阿弥の考える「花」は、美しさ、魅力、面白さなど奥深い意味がありますが、「風姿花伝」にもこの「花」という言葉がたびたび記されています。

応永の時代に描かれた「風姿花伝」ですが、世に出たのは20世紀に入ってからで、1909年(明治42年)に吉田東伍が学会に発表するまでは、存在すらほとんど知られていませんでした。

「風姿花伝」は通称「花伝書」と呼ばれることもあります。

世阿弥の言葉・名言

世阿弥は芸術論や作品の中に、後世まで語り継がれる数々の名言を残しています。その中のいくつかを紹介します。

秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず

この言葉は『「風姿花伝」第七「別紙口伝」』の一節です。世阿弥は「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。」とも書いており、花、おもしろさ、めずらしさは同じことで、花は散るからこそ咲いたときに珍しさを感じる、ということを言っています。秘事も隠しているからこそ披露したときに感動を呼ぶことができる、珍しいことをやりますよと予め期待させていたのでは感動を呼ぶことはない、逆に秘密を知っていることを相手に知られないよに油断させれば戦いに勝つことはたやすいということです。

初心忘るべからず

『花鏡(かきょう)』に書かれた言葉です。世阿弥の名言の中でも、最も広く知られている言葉といってよいでしょう。現在のビジネスシーンでも、自身の指針として挨拶のスピーチなどに使ったり、座右の銘としている人も多い言葉ではないでしょうか。
「初心をするべからず」は「物事を始めたときの気持ちを忘れるな」ということですが、世阿弥がいうそれは最初の志に限ったものではありません。『花鏡』では「初心をするべからず」に続けて「是非の初心をするべからず」「時々の初心をするべからず」「老後の初心をするべからず」の三カ条を記しています。物事の初めだけでなく、その時々、老後に至っても初心はあり、それを忘れてはならないということを世阿弥は説いてるのでしょう。

家、家にあらず。継ぐをもて家とす

『「風姿花伝」第七「別紙口伝」』の一節です。「芸の家とはただ家が続いているから芸の家ということではない。その家の芸をきとんと継承しているから芸の家なのだ。家の継承者だから芸の継承者だとはいえない。その芸を理解している者が芸の家の人なのだ」という意味です。たとえ自分の子孫であっても、才能がなければ芸を継がせるべきではないという厳しい姿勢が感じられます。

稽古は強かれ、情識はなかれ

『「風姿花伝」「序」』の一節です。「稽古は厳しい心でしっかり行わなくてはならない。慢心による凝り固まった心があってはならない」という意味です。「情識」は普段あまり目にしない言葉ですが、もともと禅でよく使われる言葉で「凝り固まったかたくなな心」のことです。

時に用ゆるをもて花と知るべし

『風姿花伝』の一節で、その時々に役に立つものが花であるという意味です。「花」というのは、美しさ、魅力、面白さなど複合的な概念を指しており、観客の好みや状況を考慮してふさわしい芸を観せることが大切であると言っています。

世阿弥についてのまとめ

  • 世阿弥(ぜあみ)は室町初期の能役者・能作者です。
  • 世阿弥は父、観阿弥とともに将軍足利義満の庇護を受け、能を大成させました。
  • 足利義満の死後は冷遇を受け、義教によって佐渡に流され生涯を終えています。
  • 世阿弥は「高砂」をはじめ50を超える謡曲を残しています。
  • 「風姿花伝」は世阿弥の遺した能楽の理論書です。1909年(明治42年)に吉田東伍が学会に発表して多くの人に読まれるようになりました。
  • 世阿弥は書の中で数々の名言を残しています。現在でもよく使われる「初心忘るべからず」も元々は世阿弥の言葉です。