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義を見てせざるは勇なきなりの意味
「義を見てせざるは勇なきなり」とは、人として正しいことだと知りながらも実行しないというのは勇気がないということだ、という意味です。
日本の言葉だと勘違いしているかたも多いのですが、本来は孔子の論語にある「其の鬼に非ずして之を祭るは諂うなり。義を見て為さざるは勇無きなり」という文が出典です。
この言葉に含まれている””義”とは、儒教の五常、仁・義・礼・智・信のひとつ。
それぞれ、簡単に説明すると下記になります。
- 仁:人を思いやること
- 義:欲にとらわれず、なすべきことをすること
- 礼:「仁」を行動として表した、上下関係において守るべきこと
- 智:道理をよく知り得ていること
- 信:誠実であること、友情に厚いこと
義を見てせざるは勇なきなりのビジネスシーンでの意味
ビジネスにおいても、助けたほうが人としては正しいが、自分にメリットはないというシーンは多々あるかと思います。
例えば、パワハラやセクハラで苦しんでいる人がいたとして、助けてもメリットはありませんが、人としては正しい行動と考えられます。
あまり起こってはほしくないですが、そういう状況から誰かを助けるときなどには「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉を使うことができます。
義を見てせざるは勇なきなりの例文
義を見てせざるは勇なきなりの類似表現
義を見てせざるは勇なきなりは「正しいことをしないのは勇気がないことだ」という意味のため、類似表現となる文章は特にはありません。
「正義」という言葉も近い意味はありますが、この言葉だけでは「正しいことをするかしないか、勇気があるかないか」までを判別することはできません。
しかし同じ孔子による言葉に、
「良心に照らして少しもやましいところがなければ、何を悩むことがあろうか。何を恐れることがあろうか。」
というものがあります。
この文章も、「人として正しいこと」について触れている文章であると考えられます。
読んだとおり、人として正しいことをするのなら、悩んだり、恐れたりする必要はないという意味です。
そう考えると、「義を見てせざるは勇なきなり」に似た部分のある文章であるともいえます。
義を見てせざるは勇なきなりの対義語・表現
一般的に、「義を見てせざるは勇なきなり」の対義語として多くあげられているのが、「触らぬ神に祟りなし(さわらぬかみにたたりなし)」です。
何かあったとしても、関わりを持たなければ自分が災いに巻き込まれることはない、という意味になります。
「義を見てせざるは勇なきなり」の場合は、自分にとって利益がないことがなかったとしても人として正しいことをしないのは勇気がない、としています。
対して、「触らぬ神に祟りなし」の場合、利益があってもなくても、正しくても正しくなくても「関わらない」というスタンスになります。
そのため、まさに真逆となる言葉といえます。
ビジネスにおいては「触らぬ神に祟りなし」の姿勢をとっている人を見かけることは、決して少なくありません。
むしろ「義を見てせざるは勇なきなり」という人のほうが少数派でしょう。
対義表現・類似表現の例文
「正義というものは確かに大切なことかもしれないけど、仕事においては、正義を貫くのは難しい。」
「あの人は正義感がとても強いけど、そのせいで、少し損をすることが多いよね。」
「触らぬ神に祟りなしというけれど、やっぱりもめごとには関わらないほうが安全だな」
「課長が激怒している。たぶん誰かが何か大きなミスをしたんだろうけど、触らぬ神に祟りなしだ、自分たちは知らないふりをしておこう」