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異業種への転職を考えていても、一般的に難しいと言われることも多く、なかなか踏み出せない人も多いでしょう。ここでは、プロのサッカー選手として活躍した後、異業種へ転職し、見事にセカンドキャリアで成功している10名の元プロサッカー選手をご紹介します。

一般的に考えれば、華々しいプロスポーツ界で活躍した経験がある人が、一般社会で経営者や会社員などとしても成功するのはあまりイメージできないでしょう。

サッカーに限らず、プロスポーツ選手のセカンドキャリアは、ひとつの社会問題ともされているほどです。しかし、実際には異業種転職に成功した人もいるのです。

そんな難しい傾向の転職に成功し、別なフィールドで活躍する元プロサッカー選手は、ほぼ一般社会の経験なしにどうやって成功したのでしょうか?

特に難しいといわれるプロスポーツ選手の異業種転職での活躍だからこそ、一般の社会人の異業種転職にも学べることがあります。異業種転職に向かって一歩前に進めます。

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嵜本 晋輔(元・ガンバ大阪所属)

プロフィール

1982年4月14日生まれ、大阪堺市出身、小学校4年生からサッカーをはじめました。関西大学への進学と同時にスカウトでガンバ大阪への入団も果たす、華々しいプロサッカー選手としてのキャリアスタートだったのです。

入団1年目の2001年から公式戦に出場、活躍しましたが、その後は出場機会に恵まれないまま、3年目の2003年にガンバ大阪から戦力外通告を受けて退団してしまいました。

翌2004年は、当時JFLに加盟していた佐川急便大阪SCでプレーを続けましたが、結局そのシーズン限りで引退することとなってしまいました。

実は、佐川急便大阪SC在籍中に、兄2人と共同出資でMKSコーポレーションを設立しており、それが現在のセカンドキャリアのはじまりになっています。

現在の活躍、実績に至るまで

佐川急便大阪SC在籍中の2004年6月に、2人の兄と設立したMKSコーポレーションでは、もともとも家業であったリサイクルショップで学びながら事業展開をしていました。

サッカーを引退し、本格的に会社で働き出したのは2005年、翌2006年には、ブランド品買取専門店「なんぼや」をオープンしています。家業のリサイクル業務をリユースとすれば、事業拡大ができるのではないかと、以前から可能性を感じていたそうです。

会社としての転機は、2008年7月の新事業で阪神本線・西宮駅前にて洋菓子店「パティスリー ブラザーズ」の1号店を開店した頃でしょう。

この事業が3兄弟経営の珍しさもあり大成功、2011年9月には、今では知名度も高い焼きたてチーズタルトの専門店「PABLO(パブロ)」を出店しました。この時点で、MKSコーポレーションの年商は20億円に達していたのです。

兄のインタビューでは、3兄弟での会社を始めたころから、長男はファッション、二男は料理を目指し、三男の嵜本は家業のリユースに可能性を感じていたそうです。

3兄弟の中の三男は、「どんな時も冷静に物事を判断出来るタイプ」と兄は描写しており、これはサッカーを通して身につけたものなのでしょう。

2016年2月にMKSコーポレーションは株式会社Days&Co.Groupに社名を変更しております。

現在は代表取締役社長、買い取り事業を分社化・独立

2011年、MKSコーポレーション(現:株式会社Days&Co.Group)から買取事業を分社化・独立し、株式会社SOUを設立、代表取締役社長に就任してます。

MKSコーポレーションでは、家業であったリユースの可能性に着目し、当初からブランド買取店「なんぼや」を担当しており、SOUでは「なんぼや」の更なる多店舗展開しています。

また、BtoBオークション事業の「STAR BUYERS AUCTION」、予約制の買い取りサロン「BRAND CONCIER」、BtoC販売事業「BRAND RESALE SHOW ZIPANG」などの新規事業運営にも積極的です。

リサイクルからリユースへ、またチャネルを特化させたりする時代に合わせた転換をしたのが、事業成功のキーになっているでしょう。株式会社SOUは、従業員は300人を超え、2016年度の売り上げは219億円をマークしています。

 

 

 

薮崎 真哉(元・柏レイソル所属)

プロフィール

1978年6月1日生まれ、千葉県千葉市出身、1995年の全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝し、1997年に高校卒業後にJリーグの柏レイソルに入団しました。6年間在籍するも、なかなか出場機会に恵まれず、6シーズン目の2003年には、戦力外通告を受け退団しました。

現在の活躍、実績に至るまで

退団時に全くキャリアプランはなかったものの、多くのアスリートがそうであるように飲食事業で独立開業を目指そうと考えました。

修行も兼ね、銀座のダイニングレストランに就職し店長としてがむしゃらに働きましたが、あまりの低賃金に半年で退職してしまうのです。

その後、しばらく警備や運送会社の日雇いアルバイトで日銭を稼ぐ生活をしていました。

これではいけないと悩んだ末、飲食関連の出店コンサルティング会社に営業職として入社します。2年以内の独立を目指し、5か月目には1000万の利益を出すトップ成績をたたき出したのです。

この時、「努力は裏切らない」、「夢を叶えることの大切さ」というサッカーから学んだ信念のもと、必死に働いたとインタビューで振り返っています。営業職の時の夢は、「2年以内に独立」「年収は1000万円でスタート」(職種は)何でもいい」だったそうです。

2008年に、Webリスクコンディショニング事業を主にするIT企業「株式会社ジールコミュニケーションズ」を設立します。誹謗中傷などの風評被害などのWebリスクコンサルティング、インターネット広告などの製作をするWebマーケティングを事業の中心にしています。

2013年には、新事業として体育会系学生の就職支援のための採用コンサルティング事業を手掛ける「株式会社ジールアスリートエージェンシー」を設立して、自分の経験も活かす事業をしています。引退後のアスリートだけでなく、アスリート系学生の新卒紹介サービスや人材育成研修なども展開しています。

現在はITコンサルティング、3社の代表取締役

2014年、グループ会社2社の中核となる「株式会社ジールホールディングス」を設立し、3社の代表取締役、またITコンサルティングとしても活躍しています。

2016年シーズンからは、柏レイソルのユニフォームスポンサーにもなり、かつてのチームへ、またサッカーへの恩返しをしています。

「株式会社ジールホールディングス」は、2016年グループ連結で資本金が1億1,500万円、従業員は従業員数120名にのぼり、社員が成長すれば、また別な事業へのチャレンジも考えているそうです。

 

 

 

佐野 克彦(元・清水エスパルス所属)

プロフィール

1988年4月30日生まれ、静岡県焼津市出身で、2004年~2006年には清水エスパルスユースですでに大活躍していました。

18歳で当時のU-19日本代表入りを果たし、将来を嘱望された選手の一人だったのです。2007年、清水エスパルスに入団しましたが、入団会見の10日後には、前十字じん帯断裂に半月板損傷という全治7ヶ月の大ケガを負ってしまいます。

その後もケガの連続により、清水エスパルスでは一度も試合に出場することなく、戦力外通告されました。

戦力外通告を受けた当時はまだ21歳で、2009年12月にトライアウトを受けるもオファーはなく、結局引退を余儀なくされてしまったのです。

現在の活躍、実績に至るまで

清水エスパルスでの現役2年目にすでに結婚、第一子にも恵まれていたので、家族を養うことを一番に考えたと、のちのテレビ番組インタビューで語っています。

高卒で、資格がなくても入れる仕事を探しつつ、アルバイトをしながら生活を支えました。そのかたわら、予備校に通い、地方公務員を目指して、毎日10時間の猛勉強をする生活が1年間ほど続いたのです。

現在は警察官

引退後の約1年間の猛勉強で、2010年には静岡県警の試験に合格、無事採用されました。2015年9月には、巡査部長に昇進したそうです。

高卒者の転職で30歳以内なら、警察官や初級地方公務員は異業種転職の選択肢のひとつになるでしょう。

警察官への転職には、元プロサッカー選手としての体力や過酷なプロの世界でやってきた精神力などが、採用試験で有利になった可能性も高いでしょう。それまでのキャリを活用している転職ともいえます。

静岡県警の高卒程度で受験可能な試験は、警察官または警察行政職員があります。

平成28年度静岡県警採用試験結果によると、高卒程度で受験可能な警察官Bは、公告数が一般職の男性103名、女性14名、情報処理2名であり、倍率は一般男性3.2倍、女性5.9倍、情報処理は1.0倍でした。

倍率は低くはないですが、将来的な安定性や社会貢献度が高い職業ですし、学歴によりはっきりと区分けされているので、目指しやすい職業のひとつでしょう。

異業種転職で警察官などの公務員を目指す際には、年齢制限と受験資格に注意すると、自治体により、社会人経験重視や実績重視の募集も多くあります。また、以前に比べると、年齢制限も緩和されているので、チャンスが広がっています。

杉本 倫治(元・セレッソ大阪など所属)

プロフィール

1981年6月17日生まれ、奈良県天理市出身です。奈良県立耳成高校(現・畝傍高校)時代、チームの監督が当時のセレッソの強化部長と知り合いで、監督からセレッソへの紹介により、加入テストを受験するチャンスをつかみました。

テストに見事合格し、セレッソ大阪に加入したのです。
そのころのセレッソ大阪は、森島寛晃などスター選手が在籍する人気のチームで、テストで入団した杉本は目立つ活躍のないまま1年目を終えてしまいました。

しかし、プロ2年目の左サイドMFにコンバートされたのが好機となり、チームで活躍するだけでなく、2001年にはU-20日本代表候補、2003年にはU-22日本代表を経験しました。

これらの国際大会を通じ、試合で実践を重ねることが大切と実感、より実践への出場機会が欲しいと考え、自ら移籍を申し出るのです。

2003年8月~12月、ヴァンフォーレ甲府にレンタル移籍します。しかし、甲府の気候に馴染めず、そこでは出場機会に恵まれないまま戻ることになってしまいました。

そして、戻った所属先のセレッソ大阪から、契約満了による事実上の戦力外通告を受けてしまいました。

サッカーを続けたいという強い気持ちがあり、2004年~2005年には横浜FCに移籍して現役を続行させました。

しかし、2004年シーズン中に左ひざじん帯の炎症というケガを負い、2005年には出場機会が完全になく、二度目の戦力外通告を受けてしまったのです。

合同トライアウトなどにも挑みましたが、オファーがなく、結局2005年、6年間の現役生活に終止符を打つのです。サッカーへの思いが強く、2008年には、大阪府2部リーグのホクセツFCで現役復帰を果たすしたこともありましたが、この時も戦力外通告でキャリアを終えてしまいます。

現在の活躍、実績に至るまで

その後、故郷である奈良県で、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めましたが、何か体を使う職業に就こうと考えていました。

妻のすすめで、消防士になる覚悟を決め、半年間、専門学校に通って必死に勉強しました。

どの努力の成果が報われ、2008年に見事試験に合格しました。当時35歳だったので、希望した奈良県内の消防局の受験は年齢制限で受験できなかったのですが、大阪市消防局から合格通知を受けることができたのです。

その後、消防学校で出会った救急救命士の教官に感銘を受け、今度は“救急”に関わりたいと思いが強くなってきました。

救急救命士の資格を取得するためには、半年間の救急救命士養成所での訓練ののち、さらに国家試験に合格しなければなりません。

また、実務経験も必要なのです。転職したばかりだったので、しばらくは消防士として経験を積み、必要な実務経験を満たした入局から4年後の2011年、やっと救急救命士の資格を取得します。

しかし、最終的に救急救命士として働くには、さらに倍率の高い内部の筆記選考試験をパスしなければなりませんでした。

現在は救急救命士

内部の筆記試験にも合格したのち、現在では救急救命士として働いています。救急救命士は、朝9時から翌朝9時まで24時間の勤務体制で、過酷な職場といえます。

インタビューでは、「助けられる可能性のある人を助けたい。そうした思いが、やりがいになっています。」「病院に行きたくないという方もいれば、受け入れ先の病院がなかなか決まらないこともあり、すごく難しい仕事です。高度なコミュニケーション能力が求められます。」と語っています。

また、救急車は3人、消防車は4人で一つのチームとなって動くので、チームプレーの重要性にはサッカーの経験が活きているでしょう。異業種への転職者へ、「空き時間に資格を取るようなことをしておくとすごく役立つ」と答えています。

長くケガで低迷しましたが、なかなか諦めがつかなかったものの、家族への思いが固い転職への決意になったと、後のインタビューで語っています。

内田 利広(元・セレッソ大阪など所属)

プロフィール

1972年8月12日生まれ、長崎県出身で、小学生時代に地元多比良少年団でサッカーをはじめ、全日本少年サッカー大会で準優勝することから、華々しいサッカーキャリアをスタートしています。

中学時代に国見中学で全国中学校サッカー大会準優勝、高校時代に国見高等学校で全国高校サッカー選手権大会優勝の実績をおさめ、U-17サッカー日本代表にも選出されます。

1991年に明治大学に入学し、在学中には、バルセロナ五輪予選代表にも選出されてました。卒業後、1995~1996年は名古屋グランパスエイトに在籍しますが、わずか1試合の出場にとどまり、1997年にはセレッソ大阪に移籍しました。

セレッソ大阪でも思ったような成績を残すことができないまま、2000年に現役を引退して、セレッソ大阪ユースのコーチをすることになりました。

現在の活躍、実績に至るまで

セレッソ大阪のコーチの後に、一度キャリアチェンジをして、雲仙市市役所職員として働いています。

雲仙市は、2005年に国見町・瑞穂町・吾妻町・愛野町・千々石町・小浜町・南串山町が合併して発足した市で、出身地であるサッカーが盛んな土地です。行政単位で、サッカーイベント誘致などにもかなり積極的に取り組んでいます。サッカーのキャリアを活かしつつ、地元に貢献できる機会だったでしょう。

その後、長崎からJ1チームを出したいという有志とともに、2005年にはV・ファーレン長崎で選手兼コーチとして現役復帰し、1年後にはコーチ専任として活躍しました。

現在は国見高校総監督

現在は、母校国見高校で総監督としてチームを率いています。(2017年12月現在)かつては全国大会常連校のひとつ、その中でも強豪と言われた国見高校ですが、当時の小嶺忠敏監督が2004年に退任して以来、全国大会とは縁遠くなりつつあります。

そこで国見高校では、OBで元Jリーガーの3名、内田利広総監督、小嶺栄二監督、木藤健太部長の布陣で、再度サッカー強豪校の国見高校としてのブランディングに挑戦しています。

セレッソ大阪ユースのコーチ時代から、母校国見高校で自身がコーチをしたり、Jリーグ選手当時の仲間を紹介したりと関わりを深く持っていたようです。

公務員として安定した職業で地元に戻り、地元で再度キャリアを構築していくのはUターンで異業種に転職をしたい人のいい手本になるでしょう。

八十 祐治(元・ガンバ大阪など所属)

プロフィール

1969年10月31日生まれ、大阪府高槻市出身で、兄弟の影響により小学校4年生のころから大阪府立本格的にサッカーを始めました。

高校は、地元近くの茨木高校に進学し、サッカー部に入部、卒業後には、一浪人して神戸大学経営学部に入学しました。

神戸大学のサッカー部から、1993年にガンバ大阪に入団します。その後、1995年にはヴィッセル神戸、1996年~1997年にはアルビレックス新潟とJ1チームを渡り歩きました。

1998年~2000年には、横河電機サッカー部(現・横河武蔵野シティFC)に移籍します。入社当時から、一部社員にサッカー入社と言われたことがあり、引退後に関連会社に勤めることになった時には、自分はこのままでいいのかと疑問を持っていたのです。

のちのインタビューでは、大学卒業後のプロを含めた8年間は力を出せずモヤモヤとした悔しい時間だったと振り返っています。

そんな気持ちもあり、2000年には人材派遣会社に転職し、営業をしながら、教員免許を取得しました。

しかし、それでは終わらずに、今度は「仕事をしながら日本で一番難しい司法試験に合格して、周囲を見返そう」と思い、予備校に通いながら司法試験の勉強を始めます。それが2001年の春、31歳から始めた司法試験への挑戦は、想像以上に過酷を極めていきます。

現在の活躍、実績に至るまで

営業の仕事に加え、1日6時間以上の勉強と週3回の夜間法律専門学校と、ほぼ年中無休の生活を続け、2年間で受けた2度の司法試験は、いずれも合格ラインには全く届かない不合格に終わってしまいます。

3次まである司法試験の1次すら通過できない状況でしたが、その生活を継続し、弁護士を目指す決意は固かったのです。

3度目の試験で不合格になった2003年には、人材派遣会社を退職し、司法試験の勉強1本に絞り込みます。その頃にはプロで鍛えた精神力もさすがに疲れてきたと、のちのインタビューで本人が振り返っています。

家族と妻の支えで、2005年には4度目の試験で合格率3%の司法試験に合格を果たし、やっと本格的なセカンドキャリアをスタートします。

現在は弁護士

2006年4月~2007年9月の司法修習を経て、2007年に大阪弁護士会に弁護士登録を果たします。

現在は、関西を中心に刑事・民事事件に加え、相続や離婚問題などの分野で、大阪市北区にある摂津総合法律事務所に所属する弁護士として活躍を続けています。

弁護士は、「サッカーと同じように、刻々と変化する状況に、即座に対応し、様々な選択を迫られる場面に遭遇することは多々あり」、それでも冷静な対応ができるのは、プロサッカー選手として培った経験からだと語っています。

以前は法科大学院を修了しなければ、司法試験には挑戦できませんでした。

しかし現在は、2011年から始まった司法試験予備試験に合格すると、法科大学院修了者と同等レベルとみなされ、高卒でも司法試験を受験する資格を得ることができます。

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