ここでは「我思う、故に我あり」という言葉について解説いたします。

「我思う、故に我あり」は17世紀の哲学者デカルトのあまりにも有名な言葉です。そして哲学の世界では今なお議論の的になるきわめて難解な命題でもあります。

科学技術が高度に進化した現代にあって、哲学はもはや不要とさえ言われています。一方で、最先端の研究が進むべき方向性を見失ったとき、従来とは異なる視点や発想が大きな成果につながる例も少なくありません。

そこでここでは「我思う、故に我あり」というよく知られた哲学の命題について考察します。どうぞ最後までお読みください。

「我思う、ゆえに我あり」とは

「我思う、ゆえに我あり」はフランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes、1596年3月31日 – 1650年2月11日)が1637年に刊行した「方法序説」という著書の中で述べた言葉です。

当時のフランスでは、書物はラテン語で出版するのが一般的でしたが、デカルトは教育の機会が乏しい女性や子供でも読めるように母国語のフランス語で出版したと言われています。

ちなみに夏目漱石は小説「吾輩は猫である」の中で、「デカルトは『余は思考す、故に余は存在す』という三つ子(三歳児)にでも分るような真理を考え出すのに十何年懸ったそうだ。」と猫に皮肉を言わせています。

しかしながら「我思う、ゆえに我あり」の意味はそんなに簡単ではありません。次の項で解説するように、近代哲学の核心を突く命題として大変に深い意味を持つ言葉です。

「我思う、ゆえに我あり」が意味するもの

「我思う、ゆえに我あり」が哲学史上もっとも有名な言葉になったのは、真理や存在という哲学の重要なテーマをシンプルかつストレートにあらわした命題でもあるからです。

デカルトが生きた時代はガリレオ・ガリレイが地動説を唱えてカトリック教会に処罰されるなど、人々が信仰する聖書の真理と、科学や学問の真理との間に乖離が生じはじめた時代でもあります。

西洋哲学もまたデカルトの時代に信仰と理性の対立が表面化しています。中世の哲学では真理や存在は本質的に神の領域であり、すべての解釈は信仰に依存していました。

しかし数学者でもあったデカルトは、哲学における真理や存在について考察するために従来の常識や既成概念を徹底的に疑いました。デカルトはこの懐疑主義的な考察方法を「方法的懐疑」と呼んでいます。

デカルトは絶対確実な真理や存在に到達するまではあらゆる偏見と誤謬を排除し、たとえ真実のように見えても疑う余地がわずかでもあれば徹底して否定することを心がけました。その結果、「我思う、ゆえに我あり」という革新的な哲学原理に到達します。

つまり「絶対確実な真理の存在を追求するために疑わしいものを全て排除するとしても、全ての存在を疑う私自身は絶対確実に存在する、という事実だけは排除できない。したがってそれこそが真理である」という論法です。

見方を変えれば「我思う、ゆえに我あり」は真理の存在を「信仰」ではなく「方法的懐疑にもとづく思索と理性」によって探求することで近代哲学の道筋を示した言葉ということができます。

しかしながらデカルト自身も実は信仰心が非常に厚かった人で、神の存在をつゆほども疑っていませんでした。彼が書いた「方法序説」の中でも、神の存在証明を合理主義的に試みた記述があります。

ちなみにデカルトによる神の存在証明の論法は、「我思う、ゆえに我あり」と同じです。まずデカルト自身の存在は、彼が「絶対確実な真理の存在を疑う」ことで証明されます。

次に、デカルトは信仰心が厚く、彼にとって神は最も重要な存在でした。神がいない世界など、デカルトにとってはありえません。したがって神は実際に存在する、という論法です。

このように、「神は存在する」と思うことで神の存在が証明できるというデカルトの主張は、われわれ現代人の感覚では詭弁のようですが、デカルト以降の西洋哲学は信仰の固い殻を破って、近代化への長い道のりを手探りで歩みはじめることになります。

「我思う、ゆえに我あり」に対する批判

前述したように近代哲学はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉から始まった、といっても過言ではありません。一方で、現代の分析哲学や実存主義の立場からすると「我思う、ゆえに我あり」は論考が甘く、批判の多い思想でもあります。

デカルト哲学の欠点は、科学や学問の足かせになっていた「信仰」という名の固定概念に彼自身もとらわれていたことでしょう。神は「絶対的な真理」であり、「神を思う」だけで存在が証明されるという主張は、現代人の感覚とは相容れません。

そもそもデカルトが言うように全知全能の神の存在を絶対的なものとするなら、人間の能力は神に劣るのは明白です。その不完全な人間に神の完全性が理解できるでしょうか。

もちろん人間がいくら不完全でも、神の完全性と人の不完全性のちがいぐらい判別できて当然でしょう。しかしそれが判別できたとしても、神の完全性を完全に理解できるかどうかは問題が別でしょう。

また、不完全な人間が「神の存在を思う」だけで神の存在の完全性が証明できるなら、麻薬中毒患者の幻覚もまた立派に「存在」することになってしまいます。

さらに、「我思う、ゆえに我あり」を数学的な公式にして「我思う=我あり」と仮定すると、それが真であることを、第三者による検証や論理的な思考によって証明することはできません。

結局のところ、「絶対確実な真理の存在について考えている自分は確かに存在する」といっても、それを証明できる者は自分以外にいないことになります。

このように「我思う、ゆえに我あり」は現代の常識に照らして考察すると証明の論理的基礎が脆弱で、結論が客観的かどうかもわかりません。そこに宗教と学問の両立を前提としたデカルトの限界があると言えます。

「我思う、ゆえに我あり」の外国語表現

「我思う、ゆえに我あり」はフランス語では、「Je pense, donc je suis.」と書きます。またラテン語では、「Ego cogito, ergo sum, sive existo」「Ego sum, ego existo」などと表現されます。

ここでは英語とドイツ語についてもご紹介します。

英語の例文

I think, therefore I am.

英語の場合、我は「I」 、思うは「think」 、ゆえに、は「therefore」、我ありは「I am」となります。

ドイツ語の例文

Ich denke, also bin ich.

ドイツ語の場合、我は「Ich」、思うは「denke」、ゆえには「also」、我ありは「bin ich」で表現されます。

まとめ

・「我思う、ゆえに我あり」はフランスの哲学者ルネ・デカルトが述べた言葉です。
・「我思う、ゆえに我あり」は絶対的な真理を求めたデカルトが、全てを疑っても自分の思考だけは確かに存在する、ということを述べた言葉です。
・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は近代哲学と宗教思想との決別を象徴する言葉となりましたが、デカルト自身は熱烈なキリスト教徒でした。
・「我思う、ゆえに我あり」は英語では「I think, therefore I am.」。ドイツ語では「Ich denke, also bin ich.」とあらわします。